徳川家康は共謀者か? | Kura-Kura Pagong

Kura-Kura Pagong

"kura-kura"はインドネシア語で亀のことを言います。
"pagong"はタガログ語(フィルピンの公用語)で、やはり亀のことを言います。

 大河ドラマのような歴史ものは最初から結末も大まかなストーリーも観る人は大抵分かっている。じゃあなぜそんなものを観るのか、といえば歴史上の人物が一体何を思い、何を考えていたのか、というところに創作の余地が大いにあるからだ。

 2020年の大河ドラマの主人公は明智光秀だ。多くのドラマでは主君を裏切った謀反人として取り上げられるこの男が今回のドラマでは誠実で知的なキャラクターで人を惹きつける。最終回ではもちろん主君を本能寺で討ち、その後羽柴秀吉に討たれることはわかっているが、このドラマではなぜ彼は信長を討つのか?

 

 このドラマのタイトルは『麒麟がくる』である。このドラマの初回のセリフで、麒麟とはこの世に平和をもたらすものだ、と明かされている。コロナ禍の影響で中断する前の回では桶狭間の戦いで今川義元を討った織田信長がこの世に麒麟を呼び込む、と光秀が期待するところで終わった。

 その後、光秀は室町幕府第15代将軍・足利義昭から所領を与えられつつ、信長の配下として働いているのが今までの展開である。だが、光秀と信長の信頼関係は徐々に揺らぎだしている。最初は将軍に認められ喜んでいた信長だが、幕臣たちとぶつかる中で権力に対する欲望を膨張させている。その信長を光秀は警戒するようになる。

 日本の頂点にいるのは天皇であり、武士は天皇から日本の統治を任されている…それが明智光秀の思想だろう。これは中世近世の多くの武士が持った思想だ。このあと信長は将軍を京の都から追放し、大きな権力を手にする。だが、信長は天皇から日本の統治を任されるだけでは飽き足らず、天皇を亡きものにするのではないか、と光秀は思った。この世に麒麟を呼ぶのは信長ではない、そう堅く思った光秀は他の武将に望みを託そうと考えた。そして

「敵は本能寺にあり!」

それが私の予想するこのドラマの展開だ。

 

*********

 

 本能寺の変は大事件だったが、では明智光秀がなぜ主君を討ったのか、その動機については諸説あって謎のままである。中には光秀が何者かと共謀していた、という説もあるがそれを裏付ける史料はない。

 

 光秀と共謀者した容疑者として挙がる人物の一人に羽柴秀吉がいる。

 推理小説で殺人事件が起こると、被害者が死んで得をした者はだれか、という話になるが、本能寺の変で得をした者は秀吉だ。この後彼は天下人となるのだから。

主君の無念を晴らすと言って実行犯を殺せば死人に口なしである。

 だが、これは400幾年後に生きる者が想像することに過ぎない。

 

 もう一人の容疑者は徳川家康だ。動機は恨みである。本能寺の変の3年前、1579年に家康の正室・築山御前と嫡男・信康は武田に寝返ったとして信長に疑いをかけられ、死に追いやられている。この時点で家康は信長と同盟関係を結んで武田氏に対抗していた。自分の妻と長男を守るためだけに家臣に危険を冒させることはできない。そこで家康は築山御前を誅殺し、信康には自刃を命じた。

 その後、武田勝頼の自刃をもって戦国大名家としての武田氏は崩壊し、家康は信長との同盟を維持する必要はなくなった。そこで恨みを晴らすため彼は光秀と共謀した…。

 この話もまた裏付ける史料はなく、想像の域を出ない。 

 ただし、大河ドラマの制作者は社会科学的根拠にすべてを縛られることはない。このドラマでは、家康の父・松平広忠は信長に誅殺されている。(史実での広忠の死因は不明)幼いころの家康が光秀に諭される場面もあった。

 私の想像はどうしても家康共謀説へと膨らんでいく。

 

***********

 

 

 こちらは愛知県岡崎市の若宮八幡宮境内にある徳川信康首塚。彼が城主を務めていた岡崎城から東に約1km、国道1号線バイパスから少し離れたところにある。

 記録によると、織田信長は京で信康の首級をあらためたあと、それを家康に帰したという。なぜかその首級は仏教寺院ではなく、仁徳天皇を祭神とする神社の本殿の隣に葬られた。

 

 

 徳川家康の正室は、岡崎城から少し離れた丘に建てられた築山御殿を居所としたため、築山御前と呼ばれるようになった。その築山御殿があったのは現在甲山会館と言う岡崎市立の文化施設があるあたりのようだ。

 記録によると築山御前は徳川家の家臣たちの人望はなかったようだが、家康は彼女をどう思ったのだろうか。

 家康には十余名の側室がいて彼女たちとの間に多くの子を遺したが、築山御前の死後は正室を迎えることはなかった。豊臣秀吉が天下を取った後、秀吉の妹・旭姫を正室に迎えているがこれは形だけの婚姻だったようだ。旭姫が秀吉のそばで病没することでこの婚姻は終わった。

 この時代の武家の婚姻といえば政略結婚だが、家康がそれを避けたのはどういう理由があったのだろうか。