「お前はなぜ演劇を観てテレビを観ないんだ?テレビを観ろ。」
30代のころ友人にそういわれたことがある。彼の頭の中には「演劇:誰も観ない、テレビ:皆が観る」という図式があって、
「人と同じものを観て常識的にものを考えろ。」
というわけだ。
そうはいっても私にとってテレビは面白くない。10代のころからバラエティ番組は好きではなかったが、大人になると丸くなるどころか嫌なテレビ番組は増えていった。
テレビはカネがかかる。だから民放はスポンサーの言いなり。NHKだって為政者の言いなりであり、国営放送と揶揄されてもしょうがない。そんなわけで私は情報も娯楽もテレビ以外のものに期待するわけだ。
そして今回、私は劇団態変の公演『箱庭弁当』を2020年11月7日の昼の部で観た。
この劇団の芸術監督・金満里の名前は前から知っていた。朝鮮舞踊家の娘として生まれたが、幼い時に患った小児まひの後遺症で四肢に障碍を持つこととなった彼女は母親の芸を受け継ぐことが出来ず愛情の薄い環境で育った。苦しみ抜いた彼女は自分にしかできない芸を追及する生き方を選ぶ。
金は障碍のため自力で移動できない。他のメンバーも障碍者で、金と同様な障碍を持つ人もいる。彼女らが時には黒子の助けを借りながら自分の身体の動かせる部位をありったけ動かして観客に訴えかける。彼女たちの衣装は首から下の全身を覆うタイツだ。このような衣装で彼女たちがさらすのは障碍のある身体だけではない。世間と闘う自分の心も彼女たちは私たちにさらけ出しているのだ。
テレビだって障碍者を取り上げることはある。最近はNHKの『バリバラ』のように弱者と呼ばれる人たちが本音を語る番組も出てきたが、多くのテレビ番組はスポーツで輝く障碍者、ハンサムな障碍者、かわいそうな障碍者、といった人たちを当たり障りなく取り上げたものだ。金の劇団のように当事者が心を裸にしてぶつかってくるようなものは今のテレビでは観れないだろう。
さて、上の写真ではパフォーマーたちが弁当箱の中でポーズをとっているが、実はこの話、お弁当の話なのだ。
誰かが箸をつけずに捨てた弁当。その弁当のタコさんウインナーがくずかごを脱出して旅に出る。そして最後は弁当のご飯やおかずたちが花見をしている。
金がこの芝居を企画したのは2016年に19人の障碍者が殺害されたやまゆり園事件がきっかけだという。弁当を捨てた子供はあの事件を他人事と思う世間であり、捨てられた食べ物は生産性がないとして切り捨てられる人々、ということまではわかるが、パフォーマーの動きが何を表しているのかは「一見さん」の私には分からない。分からないままあっという間に舞台挨拶であった。
だが、わかりにくいで切り捨てられないものを彼女たちは持っている。また勝負しろ、と思いつつ劇場を後にした。