卒業文集と責任 | Kura-Kura Pagong

Kura-Kura Pagong

"kura-kura"はインドネシア語で亀のことを言います。
"pagong"はタガログ語(フィルピンの公用語)で、やはり亀のことを言います。

「俺、小学校のとき卒業文集の作文をボツにされたんですよ。」

大学生のとき付き合っていた友人でそんなことを言った者がいた。

「卒業文集で『痛快!スカートめくり』っていうタイトルで作文書いたんですよ。4年生の時、クラスの女子のスカートをめくって、そのうちに女子全員がズボンで学校来るようになったんですよね。そういうことを書いたら、先生が書き直せって言うんですよ。」

小学生の時ならともかく、大学入って20歳になってもそのことに不満を持っているのか、と呆れた。そんな文章が印刷され、同級生の文章とともに製本される。それを卒業後に女の同級生が読んで、どう思うのか、そういうことを彼は想像できないのだ。

 彼はスカートめくりの話を面白おかしく書く事が表現の自由だと思い、それを先生に侵害された、と思っていたのだろう。だが、自由には責任が伴なうのだ。彼が卒業したのは制服のない自由な校風の高校だったが、そこで学んでいる間にそういうことを考えたことはなかったのか?

 

 彼は時事問題を話題にできる数少ない友人の一人だった。新左翼の一つの中核派のメンバーとも民青同盟(共産党系の青年団体)のメンバーとも交流があり、ときとして鋭いこともいう男が、こんな話をするのか、と思った。まあ、学園紛争の時だって、闘争に参加した男子学生の大半は炊き出しを女子学生に全部やらせて疑問に思わなかったようだし、性暴力をはたらく活動家もいた。彼もそういう種類の人間だったのかもしれないが。

 

 自由には責任が伴なう、というが私たちは何に対してどう責任を持てば良いのか?私は他者の痛みに思いを巡らせてその答えを見つけるべきだと思う。

 

 さて、丸山穂高衆議院議員が、北方四島ビザなし交流の訪問団の一員として国後島を訪れた際の懇談会で、団長の元島民に対し

「戦争でこの島を取り返すのは賛成ですか、反対ですか」

と発言したことが問題となっている。これに対して丸山議員は言論の自由だ、と主張している。彼は所属していた日本維新の会から除名処分を受けたが、一時は維新の会の松井一郎代表も言論の自由だとして彼をかばおうとした。だが、他国の人たちを無闇に刺激してまで行使する自由と何か?彼が酒で本音が出たようだったが、敗戦時にあの島にいたことで苦労した人たちを前にして、その本音をかえりみることはなかったのか?

 

 言論の自由や表現の自由といえば、街中で「朝鮮人死ね。」というたぐいの言葉を吐く自称愛国者も問題だ。彼らは在日と呼ばれる人たちがなぜ日本に住み続けるのか、知ろうと思わないのか?民族は違っても喜怒哀楽のある人間だとなぜ思わないのか?さすがに彼らも、2020年のオリンピック開催地を決めるIOC総会の1週間前はヘイトデモを自粛したという。それが彼らの責任なのか?