BEIJINGは対岸の火事ではない | Kura-Kura Pagong

Kura-Kura Pagong

"kura-kura"はインドネシア語で亀のことを言います。
"pagong"はタガログ語(フィルピンの公用語)で、やはり亀のことを言います。

 1989年6月4日、中国北京の天安門広場で自由を求めて集っていた若者たちに中国人民「解放」軍が銃を向け、彼らを虐殺した。六四天安門事件である。あれから時が経ったが中国共産党による人民の抑圧は止まるところを知らない。

 それでは日本はどうか。対岸の日本から中国を批判することはたやすいことだが、この国でも真綿で首を絞めるように庶民から自由は奪われている。

 
 この国の為政者が国有地の売却や大学の認可をめぐって不正をはたらいても、マスコミはそれを継続的に報道しようとはしない。沖縄の辺野古や高江で米軍基地建設に異議を唱える人たちには暴力が振るわれる。オリンピック会場には湯水のようにカネが使われる一方で、原発事故の被災者たちは捨て置かれる。
 その上、今の政権は憲法を「改正」し、「公共の利益」や「秩序」という耳あたりの良い言葉を使って庶民の権利を制限しようとしている。
 
 この日本はどんどんと息苦しい社会になろうとしている。
 Beijingは対岸の火事ではない。言論の自由を行使することはしんどいことだが、やはりおかしなことにはおかしい、と言い続けなければならない。