察する人と察しない人① 察するのは高能力 | クラゴン親方のRacing Blog

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意味なくレーシングな日々をアレしていきます

人間の深層にエグり込んで逝くコミュニケーションの話です。

 

ええオレは察しない人です。

 

が、学習の結果として察することができる場合があります。察しない場合は主にめんどくさいからです。まず伝える努力をしてほしい。

 

 

つまり、察するということはその時点で高い能力だということがいえます。

 

なんせ言っていないこと、書いていないことを、状況から空想して想定して仮定して、さらにそれが間違っているとボロクソに言われるという、もはやなんらかのプレイとしか思えぬ。

 

同時に察するには、状況や思考の共有が肝要です。もちろん事前に。

 

そもそもの判断のベースになるところが違えば、判断や結論は違うじゃないですか。別の国の人ならまあ違うよねということは誰にでもわかる。たぶん。

 

同じ日本人なら、同じ会社なら、同じ学校なら、友達なら、親子なら、兄弟姉妹なら、そのコミュニティで常識とされる一定のアレが必ずあるものです。

 

こういう常識の共有なしで察するというのは、とーてーも難しいです。

 

なのでオレは、察してくれない人を見たら、まず前提とする知識が違うことと、自分の説明が悪いと思う。

 

察してもらうというのは相手の「察する能力」をアテにすることでもあるじゃないですか。相手の能力によって成否が変化する、ある意味でコントロールされてしまうなら、その時点でコミュニケーションとして失敗です。

 

サーキットの常識を、知らない人といかに共有するかというアレをもうン十年やっているおぢさんですからね。

 

察してくれというのは基本的にあってはならぬ。安全に関する話だから。それでも説明が足りなくて、某部屋の指南書はずっと変更し続けています。

 

 

ネチコヤンは全てを察した上で、人類の希望と反対のことをします。

 

それがネチコヤン。