幡新大実|Omi Hatashin's Blog

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この2022年10月20日の朝日新聞の耕論の小見出し、兵の命は「数」

https://www.asahi.com/articles/DA3S15450172.html

は、私の言葉ではなく、その内容から記者の中島鉄郎さんが考案したものです。


私が話した内容は、今、ウクライナに攻め入っているロシア軍は兵が死んでも遺骨は放ったらかしらしいということでした。


今年は、横井庄一さんがグアム島から帰国して50周年に当たるので、昨年あたりから色々各方面から取材がありました。そして、発見の50周年の1月24日に叔母が倒れ、5月27日に他界しました。


その関連のニュースを見て、合唱団の同僚が、近所の真田山陸軍墓地にちなんで、日本も羽振りの良かった頃はちゃんと遺骨を持って帰ったものだが、負け戦になるとひどいものだったという趣旨のお話をしてくださったのが、私のした話のきっかけでした。


横井さんは、少なくとも最後まで一緒にいた志知さん、中畠さんの遺骨を一緒に持って帰りましたし、その他のグアム島で一緒だったことのある人たちについて知る限りの消息を回想記『明日への道』に書き込んで出版しました。


グアム島は米軍基地なので、なかなか遺骨収集が進まない場所の1つのようです。





この2022年10月20日の朝日新聞の耕論の小見出し、兵の命は「数」

https://www.asahi.com/articles/DA3S15450172.html

は、私の言葉ではなく、その内容から記者の中島鉄郎さんが考案したものです。


私が話した内容は、今、ウクライナに攻め入っているロシア軍は兵が死んでも遺骨は放ったらかしらしいということでした。


今年は、横井庄一さんがグアム島から帰国して50周年に当たるので、昨年あたりから色々各方面から取材がありました。そして、発見の50周年の1月24日に叔母が倒れ、5月27日に他界しました。


その関連のニュースを見て、合唱団の同僚が、近所の真田山陸軍墓地にちなんで、日本も羽振りの良かった頃はちゃんと遺骨を持って帰ったものだが、負け戦になるとひどいものだったという趣旨のお話をしてくださったのが、私のした話のきっかけでした。


横井さんは、少なくとも最後まで一緒にいた志知さん、中畠さんの遺骨を一緒に持って帰りましたし、その他のグアム島で一緒だったことのある人たちについて知る限りの消息を回想記『明日への道』に書き込んで出版しました。


グアム島は米軍基地なので、なかなか遺骨収集が進まない場所の1つのようです。





 去る2020年4月17日、コロナ禍において、横井庄一記念館を休館して叔母、横井美保子当時92歳を名古屋から京都に避難させました。それから 2022年が叔父の横井庄一の帰国50周年となることから、NHK、CBC、中日新聞、共同通信、読売新聞各方面から取材があり、本人も「50周年までは生きていないとね」と申して割と元気にしておりました。
 そして、2022年1月24日、ちょうどグアム島で迷子を探していたデューナスさんとディ・グラシアさんが横井さんを発見して保護したその日の50周年に胆管炎で救急搬送されました。内視鏡手術で胆石を取り出しましたが、寄る年波には勝てず、ついに5月27日に他界しました。享年94歳。
 常に前向きな人でした。
 人を助けることが好きで、人に助けられることが嫌いな人でした。
 9月3日、朝日新聞の伊藤智章さん、ゆいぽーとの山本直子さんたちのご尽力により叔母を偲ぶ会を開くことができました。日本中、老若男女、いろいろな人たちから、愛され続ける横井夫妻であることを感じました。
 それは、横井さんが、日本の降伏時には、まだ戦場で生きていながら、しかるべき方法で上官から戦闘任務を解除されることがなかったために生きて帰ることができなかった沢山の日本兵たち、そして、その人たちの帰りを首を長くして待っていた沢山の家族の方々の無念を代弁する人だったからだと思います。
 事実上の母子家庭で育った横井さんは、16歳の時から花井洋服店で丁稚奉公をして一日も早く独立してしっかりした父親のいる家庭を築こうとしていた、その矢先に赤紙で戦争に取られました。その帰りを死ぬまで待っていた母がいました。帰ってきた横井さんと結婚した叔母も、伯母(本人の姉)が昭和18年に満州に嫁ぎ、昭和21年1月26日に6ヶ月の従兄(甥)と共に、伯父(義兄)と1歳10ヶ月の従兄(甥)と生き別れて行方不明になっていても、どこかで生きていて欲しいと思っていました。そういう戦争の悲劇がそこかしこに残っていた時代は、もはや去りつつあります。
 それでも、語り継がれる横井さん。
 死ぬ方がよほど楽な情況において奇跡的に生き抜いたのに、恥ずかしながら生きながらえてと、謙虚な横井さん。
 その生きるための知恵と技術と努力。たくましい横井さん。
 戦友志知さん、中畠さんの遺骨を持って帰って遺族に届けた友情と責任感。熱い血の通った横井さん。
 小学生に、ちょっぴり、かくれんぼが上手だったとユーモアたっぷりの横井さん。
 横井庄一記念館を訪れたことのある人には、横井庄一記念館の想い出を綴って頂けると、幸いです。宜しくお願い致します。