幡新大実|Omi Hatashin's Blog

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 今は亡き義理の叔父、横井庄一の帰国50周年の2022年が過ぎ、今年2025年は終戦80周年・昭和100年を記念して、再び、横井庄一とその奇跡の帰国後に結婚した私の亡き叔母、横井美保子に、少なからず報道機関の注目が集まっています(写真の1枚は2025年6月12日吹田市文化会館小ホール「地方の時代映像祭」でCBCテレビ『劇場版 恥ずかしながら』が上映されたあとの大園康志監督とのトーク)。

 そこで義理の甥として、世の誤解も少なくない横井庄一の墓について、横井記念館に残されていた資料写真をもとに、後世のために必要な解説をしたためておきたいと思います。

 お墓の写真は、昭和30年、終戦10年を期して、横井庄一の生母ツルさんが、近所の行雲寺に建てた「故陸軍軍曹勲八等横井庄一之墓」を、自らお参りしている姿を写したものです。

 母ツルさんは、昭和33年に亡くなるまで、「庄一は生きとる」とおっしゃっていたそうです。

 まず、「墓石」の「横井庄一」の「庄」の字をよく見て下さい。

 本人の戸籍(写真)にはない、余計な一画(点)が右に刻まれています。

 こういう「点」はくずし字なら現れる場合もあります(写真は児玉幸多編『くずし字解読辞典』東京堂出版1970年49頁)が、楷書体にはなく、本人の戸籍にも、もちろんございません。

 私は、この余計な一画に、母ツルさんは、心から一人息子の生存を確信しているという信念を込めたのだと思います。

 その母の思いは、昭和16年8月の出征から数えれば31年目に帰国して自分の墓として説明を受けた息子、横井庄一には墓石の字を見て、すぐに伝わったはずです。「ああ、お母さんは、自分の生存を本当に心から信じていたのだ」と。

 横井庄一さんが、妻(私の叔母)に、母ツルさんの眠る千音寺霊園に本物の墓を建てて欲しいと遺言した理由も、行雲寺のお墓は刻まれている名前からして、自分の墓ではないためだったのです。

 大正4年3月31日の庄一さんの誕生から日の浅い頃に母ツルさんと一緒に写っている写真も掲げます。

 

※横井庄一記念館閉館後、ツルさんと庄一さんの母子写真及びツルさんと行雲寺の墓石の写真は、横井庄一記念館にあったアルバムの中にありました。アルバム中のその他の写真と合わせて名古屋市博物館に寄贈しました。

 横井庄一記念館にあった手作りの機織機やウナギ採りの仕掛けの竹細工などは、実は、横井さんが帰ってきてから日本で作ったもので、グァム島で使ってきた本物は、パゴの木(ハイビスカス)の内皮の繊維から糸をよって織った服などと合わせて名古屋市博物館にあります。

 横井庄一記念館は、横井庄一の妻として添い遂げた叔母が、自らも戦争経験者であり、学徒出陣で特攻隊の訓練を受けていた兄(私の父)は偶然生きて帰ってきたけれども、満州に嫁いだ姉(私の伯母)は帰ってこなかった経験をしており、その経験が、叔母をして、生きて帰ってきても迎えてくれる家族のなかった横井庄一さんとの結婚を決意せしめた事情の1つとしてあったことから、夫の亡き後に来館者に平和の尊さを伝える、そういう使命感をもって続けてきたものでした。戦後生まれのその甥(横井さん本人から見れば義理の甥)の私の立場では、単に叔母のやっていたことをそのまま受け継ぐという形では、つとまる仕事ではありません。私は、もっと別の方法を考えなければならない立場にあります。この点は、誤解のないようにお願い致します。叔母にしても、横井庄一さんが亡くなってから、その自宅を横井記念館として公開するまで、9年間かかったのです。

 

2025年6月12日(木)、広島で1限の憲法の授業を終えて、吹田市文化会館メイシアターへ直行、標記の「地方の時代映画祭」におけるCBCテレビ制作『(劇場版)恥ずかしながら』の上映のトークにコメンテーターとして参加させて頂きました。

トークはお世辞で「おまけ」というのが「相場」なんですが、今回はそうではなかったのだそうです。

まあ、よかったのなら、役割は、少しは果たせたのかも知れません。

CBCテレビの大園康志監督は、横井庄一さん帰国の1年後に生まれた愛知県の主婦、亀山永子さんの切り絵の絵本『よこいしょういちさん』(名古屋のゆいぽおと社が2020年に出版)に触発され、横井庄一さんの地元、名古屋の放送局として諸先輩方が帰国後の横井さんをつぶさに追ってきた貴重な映像資料をまとめて、最後に、帰国直後の検査入院先となった国立東京第一病院(第一復員省の「第一」と同じで旧陸軍病院)の診療記録を見つけ出して、医師たちの所見の意味を現在の医師たちに尋ねて歩きました。そして、出た答えは、特別強靭な肉体を持っていたわけではなく、逆に栄養失調で痩せこけて、歩く足元さえおぼつかないヨボヨボの老人だったこと。そして何より衝撃的だったのは、睡眠時特有の脳波がまったく感知されていなかったこと。

これは、単に島の守備隊「玉砕」の後、足掛け28年も野生動物のように生きてきた野人の生き様がそうさせたのか、それとも、村の「迷子」を捜しに来た島の現地のチャモロ族の人に「保護」されたことを、「捕虜」になったと捉えて、軍法会議にかけられて銃殺刑に処せられる危険におびえて眠れなかったのか、それとも「横井!なぜお前独りで帰る?俺たちも一緒に日本に連れて帰ってくれ!」と、グァム島で息絶えた戦友たちの亡霊が口々に生々しく語りながら横井にしがみついて眠らせなかったのか。疑問を解決するよりは、新たな疑問を提起する発見でした。

そして、診療記録の精神医学的、人間学的な横井サバイバルの要因として、比較的年長者で、素質として要求水準が低く、素朴な宗教心があったことという分析結果についても、とくに、なぜ、年長者だと生き残りやすいといえるのか。やはり気を遣う上役がいないと精神的余裕が生まれやすいからなのか(たしかに事実上の横井分団の最後の生き残りの志知幹夫さんと中畠悟さんは横井さん発見・帰国の8年前に途中で息絶えたが、どちらも横井さんより年少者だった。但し、横井さんも二人に気を使って少し離れたところに独りで住んでいたのも事実)、それとも若い頃は無茶をする傾向が強いが、ある程度、年齢を重ねると、そういう無茶をしなくなるからなのか、それとも? これもまた、疑問を解消するというよりは、新たな疑問を生み出す分析だったといえるでしょう。

なお、トークでは話す機会もありませんでしたが、私は、この点、こう思います。横井さんは、やや年長の自分よりは狩りに出る機会の多くなりがちな若手の志知さんと中畠さんのために、その足が草に切られて痛い思いをしないように靴を作り、また、着る物が痛んできたのを見ると、ハイビスカス(パゴ)の木の内皮の繊維から糸を縒って機織りをして洋服を仕立てたり、レンズを失って火おこしに苦労したため、ヤシの実の殻の繊維から縄を綯って、これを線香のように使って火を保存したり、竹を編んでウナギ採りの仕掛けを作ったり、そういうこまごまとした日常の手仕事の数々が、横井さんを今日一日、また一日と、気が付いたら1万日を超えるところまで生き続けさせた最大の要因であり、そのきっかけは、仲間の存在だったのだと思います。実は、英訳を手伝ってくれたイギリスの友人は、そこを見て、こういいました。この横井の物語が、ベトナムの戦場で迷子になった米兵の物語と根本的に違うのは、仲間のために靴を作る、そういう横井さんの人間性だと。ニューヨーク・タイムズは、「逃げ回っていた」だけの横井の姿が人の心を打つことはないが、「逆境に立ち向かってきた」小野田の姿こそ真に人の心を打つのだと、二人を比較していますが、それは、私のイギリスの友人の着眼点は違った、一見した「印象」に基くものに過ぎません。

横井さんが、ツルお母さんの眠る千音寺霊園の墓石に抱き着いて、「国にご奉公しておったんですから、勘弁してください」と、事実上の母子家庭で、ほぼ女手一つで一人息子を育て上げた母に対する長年月にわたる親不孝をあやまりながら慟哭するシーンは、ワンカットの写真以上に、言葉が残っている点で、やはり、その分、視聴者の胸に迫るものがあります。

その、横井庄一の母ツルが昭和30年(終戦10周年)、亡くなる3年前に、行雲寺に建てた故陸軍軍曹勲八等の墓は、この点もトークでは述べる機会がありませんでしたが、実は、よく見ると、「横井庄一之墓」ではなく、「庄」の字に一画余計な点が刻まれています。位牌の法名『浄華院釈正勇』は、昭和19年9月30日戦死という、グァム島に送り込まれた第29師団の兵卒に対する国の記録上の架空の統一戦死日の記されている点では、この墓石と同じなのに、そのまま使ってもよかったけれども、なぜか、庄一さんは、お母さんが行雲寺に建てた立派なお墓には入りたくなかった。この点は、位牌を預かる義理の甥としては、かなり疑問でした。つまり、死んでもいないのに建ったお墓が忌まわしいという理由で入りたくなかったわけではないと考えられるからです。しかし、この行雲寺の墓石の名前が戸籍の名前と一画違っている点を目撃すると、本人にとっても、それだけで、とても自分の墓とは思えなかったのだと合点がいきます。さらに、見ようによっては、最期まで「庄一は生きとる」と言って聞かなかったツルお母さんは、自分の寿命が尽きる前に、あえて墓石を建てて、将来、息子が生きて帰ってきたときに「母はずっとお前が生きて帰ってくると信じておった」という事実の確かなる証拠を残したかったのだともいえるでしょう。その母の信念を受け継ぎ、生きて帰ってきても、もはや身寄りのなかったの庄一さんの家族となった叔母の法名は、『美芳院釈尼保信』です。義母の信念を受け継ぎ、保ちました。必ず添い遂げますといって京都の幡新家の門を出て、添い遂げました。この点は、また、次回にでも。

さて、私は、コメンテーターとして、また大学教授として、とくに強い感情を込めたつもりもなければ、怒ったつもりもなかったのですが、事後に報道関係者を中心につめかけた石竹亭での懇親会では・・・

そうだったというのです。しかも、それが良かったという話でした。

なぜだろうと反省してみると、こういうことかも知れません。軍人恩給の質問が会場から出た時のことです。横井さんは、母子家庭で育ち、15歳で、里心が付かないように、敢えてかなりの程度離れた豊橋市の花井洋服店に丁稚奉公に出て、早く一人前になろうと努力を重ね、独立して郷里に帰って店を構えて、いよいよ自ら普通に父親のいる家庭を築いて、母に楽をさせてやりたいと思っていた矢先に、赤紙一枚で招集されました。そして、満州へ送られ、ロシヤ軍と戦うのかと思ったら、いつの間にか行先も告げられずに船に乗せられて南海の孤島に送り込まれ、圧倒的な数のアメリカ軍と戦うことになりました。気が付けば、師団司令部と分断されて孤立、正式に軍から任務を解除されることなく、ついに1万日を過ごし、ある日の夕方、偶然、迷子を捜しに来た現地人に見つかって帰国してみると、軍人恩給の基礎となる兵役期間は、なんと昭和20年までということになっている。それを見て、「ワシが勝手に好きで戦争していたということか!?」と、さすがの庄一さんも、これには本当に頭に来たようだったと、叔母が語っていたことを思い出しました。

しかも、グァム島では、第29師団長の高品彪中将戦死後、臨時に同師団長代理をつとめた第31軍司令官小畑英良中将が昭和19年8月11日に自決した後、同年9月30日に全員が戦死して「玉砕」したことになっています。しかし、その自決を大本営に伝えた参謀たちは、生きていて、なんと白旗を挙げてアメリカ軍に降伏して捕虜となり、1年後に日本が降伏すると、アメリカ軍から、日本兵を呼び集めて連れて帰ってくれと頼まれたのに、これを断固として拒否して、兵卒たちを置き去りにして自分たちだけ日本に帰って、のうのうと暮らしていたと。

横井さんは、帰国1年後、騙される方が愚かであると言って、そういう上官に、とくに恨みも述べていませんでした。

そのシーンを見て、壇上に登ってみると、いつの間にか、横井さんと、横井さんを水面上に浮かぶ氷山の一角に例えれば、水面下に沈む巨大な氷山の山体を構成するところの、もっと大勢の生きて帰らなかった日本兵たちの思いが、私に、その怒りを代弁させたのかも知れません。

私も、法律学者のはしくれです。大佐、中佐という参謀たちにとっては、「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪科の汚名を残すなかれ」という戦陣訓に法的拘束力などないことは、教わらなくても初めから分かっていたはずだということが、分かります。だからこそ、後顧の憂いなく、白旗を挙げてアメリカ軍に降伏して捕虜として衣食住を保障され、安全に日本に帰してもらうことを選ぶことができたのでしょう。しかし、末端の兵卒たちにとっては、戦陣訓に法的拘束力がないなどということは、そう教えてもらわなければ分からないことです。軍人手帳には、陸軍刑法、陸軍懲戒令、軍人勅諭とともに、戦陣訓が印刷されていました。それだけではありません。戦陣訓の本物の拘束力は、むしろ、それが法律などではなかったからこそ、もっと強力だったといえるかもしれません。

なぜなら、その戦陣訓(本訓其の二第八「名を惜しむ」)には、前があって、それは「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思ひ、愈々奮励してその期待に答ふへし。」だったからです。

兵卒にとって、この前書きは、すなわち、己が捕虜になれば、故郷の一族郎党がひどい目に遭い、戸籍に傷がつくということであり、そのように本気で信じていた者が少なくないことは、横井さん帰国当時の新聞投書を読んでいても読み取れます。横井さんにとってみれば、それは、唯一の肉親である母が人質に取られているのと同じでした。親孝行するために死ぬわけにはいかない。かといって降伏して捕虜になれば、母がひどい目に遭うから、それもできない。そのジレンマに苦しんだグァム島での1万日だったのです。

日本が戦争に負けたことは分かっていたと横井さんは言っています。しかし、にもかかわらず、出て来なかった。その間に、現代人は矛盾を感じてしまいます。しかし、現実はそういうことではなかったのです。

『今日無事』
横井さんが最も好んで書いたこの字句の真意は、現代人にとっては、なかなか伝わってきません。上記のジレンマにとらわれて、どうしても逃れられなかったグァム島での1万日のうち、今日無事といえるような日は、1日たりともなかったという背景を知らなければ、その価値は分からないのです。

2千人を超えると推定される終戦当時のグァム島に残存していた日本兵たちを置き去りにして帰国した第29師団の将校たちにも分からないでしょう。置き去りにされた兵卒たちの現実の懸念や心配のいずれもが、近代国家日本にはあり得ない、無用の心配であるということが初めから分かっていた人たちだからです。分からないやつは、分からない分、それだけ生きる価値がないのだと考えるのでしょう。知恵に恵まれて組織の上に立つ者たちが、その知恵を、下の者たちのためには使わないで、己のためだけに使って、下の者たちをみすみす置き去りにした。それは己の才覚と努力だけで己の地位を勝ち取ったと固く信じてやまない、近代日本らしい、客観的な競争試験一本で選りすぐられたエリートらしい発想かも知れませんが、それでは何のための陸軍士官学校であり、陸軍大学校だったでしょうか。

私は、憲法の授業を済ませて訪れた「時を超えて平和の意味を問う」トークにおいて、敢えて憲法9条の話はしませんでした。むしろ、主権者として、過去と現在の事実に照らして、国民がどういう判断を下すかということを問うだけにとどめました。その方が、より憲法が本来守るべき価値に忠実だと考えたからです。
 

 

 

 2024年9月21日(明日は、故横井庄一さんの満37回目の祥月命日です)、神戸市の若者、溝端健太さんが、ついに横井さんの帰国後のお家のあった名古屋市内(公益財団法人名古屋市文化振興事業団の西文化小劇場)で、鼓芝居『横井庄一』を実演しました。

 朝日新聞編集委員の伊藤智章記者の事前の紹介記事が効いたのでしょうか、立ち見が出るほどの大盛況でした。 

 

 溝端さんは、飯盒炊爨(はんごうすいさん)をやるうちに、マッチやバーナーを使わずに火をおこしたいと思い立ち、動画を調べるうちに、偶然、横井庄一に出会ったのだそうです。当初は、横井さんがどうやって火をおこしたのか(横井さん、ご本人は、何よりもこれに一番苦心したと言っていましたが・・・)に興味があったはずですが、溝端さんは、動画を見て、横井さんが木の内皮の繊維から糸を縒って、機織機まで自分で作って布を織り、砲弾の破片から針を作って裁縫して洋服を仕立てたということを知り、度肝を抜かれたのだそうです。それで、さらに興味を持って回顧録の『明日への道』文藝春秋社1974年や、同氏の妻の横井美保子(私の叔母)『鎮魂の旅路~横井庄一の戦後を生きた妻の手記』ホルス出版2011年、そして「切り絵」の亀山永子さん『よこいしょういちさん』ゆいぽおと2020年を読み漁って、コロナ禍の中で、横井さんの苦労を思えば、自分の苦労が小さく思えて、元気をもらったので、それを社会のみなさんと共有したいという思いから、鼓芝居を創作したのだそうです。

 

 その発想が、ひとつひとつ本当に現代っ子で、その現代っ子らしい切り口で横井庄一さんに興味を抱いたこと自体に、戦争を知らない、横井さんからみれば「頼りない」戦後世代の私も、色々と励まされるところがありました。

 とくに、今日の開演前の解説では、まるで溝端さんが内容を自由に「編集」したような言い方でしたが、その実、太鼓の音に載せて語られるセリフをひとつひとつ『明日への道』から忠実に抜き出し、一部、『明日への道』出版後の横井さんらしい言葉を、美保子夫人の『鎮魂の旅路」から抜き出し、横井さんのグアム島一万日の日々を支えたタロホホ川の現地チャモロ語での意味である『明日への道』をその著書(「本」)の名前にするという部分を、太鼓の「音」に変えただけで、あとは全部、横井庄一さんの言葉を忠実に再現したという、非常に著作者の「同一性保持権」に徹底して敬意をあらわした仕上がりでした。私自身、弟の上宙(たかおき)が『明日への道』の英訳に取り組んだのを受けて、それにイギリスで修正を加え、さらに解説と後半生を英語で自ら書き下ろしたPrivate Yokoi's War and Life on Guam, 1944-1972をGlobal Oriental出版社から2009年に上梓した経験があるのですが、溝端さんは、横井さんの義理の甥の一人に過ぎない私以上に、戦友の遺骨を故郷の日本に持って帰り、戦友の生き様、戦い、そして無念を政府に報告するという横井さんの切実な思いと情感を、心臓の鼓動のような太鼓の響きに載せて、しみじみと伝わる上演を実現し、心からすばらしい作品だと感服した次第です。

 こうして横井さんからもらった勇気と元気を他のみなさんにも共有したい。そんな若者が、今、この日本の国にいること。横井庄一さんは、きっとあの世で喜んでいると確信します。日本の誇りです。

 実は、溝端さんが最初にこの作品を神戸市内で実演したところ、観客の人から、こう尋ねられたのだそうです。

「横井庄一さんの遺族の許可を得てやっているのか?」

 そこで、溝端さんは、まずは、その年に主婦の亀山永子さんの『よこいしょういちさん』という切り絵の絵本を出版したばっかりの名古屋市の会社、ゆいぽおとを訪れて、山本直子社長に面会して、著作権について確認を取ったそうです。

 

 

 そして、山本社長からの紹介で、横井夫人の甥である私に会いに来られました。溝端さんは、横井さんのレコードまで探してきてくださって、研究熱心なことに感動し、2021年2月12日の神戸市三宮での3回連続の上演を見て、その素晴らしい仕上がりに感動し、いつか、名古屋で実現して欲しいと願ってきました。

 今後も、ひきつづき、毎年、名古屋で講演ができますように、心から、その成功を祈っております。