7.
彼女が入院して1ヶ月もすると、彼女の呼吸は確実に乱れていった。酸素の管をはずして会話することもなくなった。俺は、野球の練習が終わると必ず彼女の病室をおとずれ、家に帰ったあとは、眠りにつくまでくだらないメールをした。彼女からのメールが勝手に消去されることが怖くて、毎朝、目が覚めると昨晩交わしたメールを違うフォルダに移すのが日課になった。 夏が近づくにつれて、彼女はベットに横たわって眠っている時間が多くなり、県大会にむけて、俺もくたくたになるまで練習をしていたせいか、会話は極端に少なくなっていった。 「ごめんな、なんか、最近疲れてるな、俺。」 「ううん、毎日顔、みれてるだけでいいよ。ありがとう。」 そう言った優しい彼女の笑顔を、また一瞬でゆがませてしまう凶暴化した奴らは、彼女と俺をどんどん引き離そうとしていた。 しかし俺は、覚悟とともに追いつめられた場所に細い逃げ道をつくりはじめていた。それは、かなり細い道だったが俺の気持ちをずいぶん軽くした。 「最近、雨ばっかりだね。練習は、できてる?」 1ヶ月前とは全然違う、ゆっくりとした口調になった彼女は、それでも俺のことを気づかっていた。俺に対しては強引で、いつも上から目線だった彼女を、今の彼女からきっと誰も想像できないだろう。 「できてるよ。期待してろよ、リコ。約束したからな、・・・今年の夏はちゃんとどこかへ連れて行かないと。」 「・・・そっか。約束したね。・・・でもごめん。応援、今年は行けそうにないや。」 「女ごときで、どうにかなっちゃうような野球、俺がしてると思う?」 「そうだった。」 俺は、口元だけ笑った彼女のぼろぼろになった手を握った。 「梅雨、明けたら一気に熱くなるから。リコは、ここで速報でも見てのんびり待ってろ。あぁ、あと俺の行けそうな大学、探しておいてね。」 面会の終了時間の放送が流れた。 彼女は、この放送をいつも目を閉じて聞く癖がある。俺は、2回強く握りしめて手をほどいた。 「じゃぁな、また明日。」 いつもと大して変わらない時間だった。しかしなぜか、その日俺は、病室を出てドアを閉めたと同時に、せっかくつくり上げた逃げ道だけじゃ、とても追いつかないほどの絶望感に襲われた。病院を出るまで我慢できた涙を、俺はその日の強い雨にうたれることで『人前では泣かない』俺のプライドを守りながら、大声で泣いた。 そのまま俺は、彼女とはじめてキャッチボールした場所に向かい、あの時と同じ場所から今では転がってすら返ってこない濡れたボールを、おもっきり投げた。 ボールは、わずか先で勢いをなくし、失速して転がった。 「なんでだよ!なんで、俺たちを会わせたんだよ・・・・なんでだよ。」 倒れ込むように膝をつき、泣きくずれた俺を1ヶ月前の彼女が見たら、何て言ってからかっただろう。 『情けないなぁ。そんなボールなら私にでも投げられるよ。』 その日の俺の耳に、彼女の言葉が、聞こえることはなかった。 俺は、その日からそのたよりない細い逃げ道を、日々確実なものにしていった。 8. 7月も半ばだというのに、今年はまだ梅雨が明けていなかった。しかし、俺の夏の大会は、その雨の隙間をぬって遅れながらも開催されていた。俺は、順調に、準決勝まで勝ち進んだ。 準決勝の試合の朝、俺は、いつものように、彼女にメールを送った。 『約束どおり、今年はどこか連れて行けそうじゃん。で、あと2回勝ったら、関西方面な!』 15分ほどして、彼女から返信があった。 『まけたら?』 『負けると思ってる?』 試合に向かうバスの中で、俺は受信がないことを確認すると、携帯の電源を切った。 さすがに準決勝まで来ると、俺の絶好調の球でも打ちかえす選手が増えてくる。しかも、相手チームは、野球の名門校と言われる高校なのだから、設備の質も、練習量も、平凡な公立高校が勝るものはないに等しいだろう。しかし、俺たちのチームは、苦戦しながらも最終回、相手チームのミスから1点を取り、2-1の辛い勝利をおさめた。 ゲームセットのサイレンがグランドに鳴り響いたとき、俺は彼女にどんな冗談を言いながら報告してやろうかと考え、いたずら好きの子供のようにわくわくしていた。 校歌を歌い終わるとスタンドは、異常なほどに盛り上がっていた。俺も、仲間と抱き合って勝利の喜びを体で表現しあった。 ふと、スタンドの一番奥に彼女が制服を着て微笑んでいる姿が見えたような気がした。 俺は、帰りのバスの中で、携帯を開いた。受信メールをチェックした後、俺は照れて思わずうつむいた。 『すきだよ そういうとこ』 「そういうとこって、どういうとこだよ。」 俺は独り言を言って、返信を送る。 『シャワー浴びたら、すぐに行くから。で、俺のそういうとこって?』 送信ボタンを押そうとしたとき、2つ前の座席に座っていた監督がとなりの席に座った。 「垣内。そこ、曲がったところでバス止めるから、すぐ降りろ。」 「え?」 「坂木さん、・・・そうだ。」 バスのエンジン音で監督の言葉は聞こえなかったが、俺は聞き返すことはしなかった。彼女に何かあったことは監督の表情から察しがついたからだ。 バスがゆっくりとウインカーを出して停止した。監督は、俺の腕をつかんで俺を立たせると俺をバスから追い出すように背中を押した。 「垣内、走れ!」 バスから降ろされ、呆然立ちつくしていた俺に、バスの窓から誰かが叫んだ。その声はまるでスタートのピストル音のように、俺はその声を合図に全力で走り出した。 病院までは、そう遠くはなかった。俺は、のんびりとしたエレベーターにイライラしながらボタンを何度も押し、彼女が入院している階に停まると同時に、ドアをこじ開けて出ると、彼女の病室に激しい開閉音とともに、かけ込んだ。 時間が、止まっていた。 彼女は、少し微笑んだように眠っている。 酸素の管も、バイタルサインの電子音もしていない。 病室は、ただ静かで、音のない世界に変わっていた。 俺は、彼女のその優しい笑顔に微笑みがえしながら、ゆっくりと近づき、彼女の額に右手をあてた。 「なんだ。・・・俺・・・急いできたのに、寝てるって・・・なんだよ。」 病室に音を取り戻したのは、俺の怒りに似た震えた声だった。 何の反応もしない彼女の頬をなでるようにして、俺は彼女の髪を耳にかけた。 「・・・ね、リコ。・・・起きてくんないの?・・・リコ?」 俺が来たことに気がつき、病室に入ってきた彼女の母親は、俺の肩に両手をそっと置いた。 俺は、彼女の動かなくなった左手を2回、強く握りしめた。黙ったままの俺に、そっとつぶやくように彼女の母親は言った。 「准くんがね、・・・来るまでがんばってたのよ?この子。あと、ちょっとだったのに。ホント、待ってられないんだから、リコは。」 「・・・いえ、・・・遅れたのは、俺です。いつも・・・俺なんです。」 もうこれ以上は、言葉にはならなかった。プライドの高い俺の感情は、こんなときでさえ涙すら出させなかった。 表情を失った俺に、周りの人を気遣うことができるわけもなく、しばらくして彼女の父親が退院の手続きを終えて戻ってきたと同時に、俺は深く一度頭を下げ、ふらふらしながら病室を後にした。俺の背中の遠くの方で、俺の前では気丈に振る舞っていた彼女の母親の泣き叫ぶ声が、聞こえた。 9. 俺の頼りなかった細い逃げ道は、この日に完全に整った。 彼女の両親は、彼女を彼女の部屋へ連れて行き、ベットで眠らせていた。彼女の部屋は、冷たく、動かない持ち主が帰ってきたことをまだ知らないかのように、ほんの数ヶ月前と何ら変わりなく彼女を受け入れていた。 彼女に出会ったときにあげたボールも、白い机の右棚にある小さなクッションの上に戻されていた。 「准くん、少しの間、側にいてあげてくれないかしら。リコ、寂しがるから。」 「・・・はい。」 彼女の両親は、俺に彼女との二人っきりの時間を、こうして作ってくれた。静かな時間だった。ただ、この時になって俺は、彼女と過ごしていた時間は、いつも彼女の方から話し出してくれていたことに、気がついた。 俺は、彼女のベットの横に座り、何度か優しく髪をなでたあと、薄化粧した彼女の唇にそっとキスをした。 「リコ?俺も一緒に行くから。また遅れるけどさ、ちょっとだけ待っててくれる?」 迷わずその完成された逃げ道へと俺は確実に歩き出した。覚悟はできていた。 俺は、『彼女を見送った後、俺も彼女と同じように時間を止めよう』と決意した。 死への恐怖など全くない。彼女がいなくなった世界で、『生きて』いくことより、ずいぶん楽に思える。だから、優しい彼女の寝顔を見ていても、悲しみも襲ってはこなかった。 どのくらいの時間をふたりで過ごしていたのだろう。 俺は、彼女の両親に言われて彼女を抱きかかえ、用意されていた大きな木箱に彼女を横たわらせた。彼女の両親は、俺に彼女が持っていたグローブとクッションのうえに置かれてあったあのボールを渡してくれたが、俺は受け取っただけで、その木箱には入れることはなかった。 昼間あれほど快晴だった天気も、彼女の通夜が始まる頃には、夜空を真っ黒にする雲がたちこめ、大粒の雨をもたらしていた。 家族でもないのに、俺は彼女のそばに少しでもいたくて通夜のときも、慰霊用に置かれた彼女の優しい笑顔の写真がみられる場所から動かなかった。 翌朝、手伝いに来た俺の母親が、言った。 「この激しい雨じゃ、決勝戦も今日はなくなるかもね。・・・准のこと考えて、きっとリコちゃんが降らせてくれたのよ。」 母親が言ったとおり、決勝戦は翌日に延期になったという知らせが入った。しかし、今日だろうが明日だろうが、俺にはもうどうでもよかった。 ぼんやりとしたまま、時間はあっという間に過ぎていき、彼女は箱に入れられたまま、地味な黒いクルマで火葬場へと運ばれて行った。 彼女の姿がなくなる瞬間だけは、どうしても近くにいることはできなかった。 つづく