ロシアの忍び寄る脅威

 

 

老中・田沼意次は

古代・中世に国際貿易で名を馳せた一族に

海外視察を、内密にお願いする

 

 

鎖国の中

樺太、アムール川、モンゴル、カブール(アフガニスタン)、トルコ、

アラビア、イスラエル、エジプト、メソポタミアに向けて旅立つのは

1772年からのこと。   13年の月日をかけて…        (1)のあらすじ

 

 

 

出発のその年 国内ではとんでもないことが起きます

 

 

 

そのロシアから武器を買った日本人が現れたのです。

 

海外視察団が出発する同年

 

 

 

 

天坂宇佐吉  三十一歳

 

右之者はオロシア船より鳥濤邑にて火薬若干を買受けたる由訴人によりて明白なり

依て処払三年を申渡し者也

安永元年(1772年)                       代官 青沼源十郎

                     (東日流外三郡誌 第四巻 中世編⑶ 88ページ)

 

 

 

 

この一族は南北朝時代に敗れ、青森に逃げ延びた

高貴な一族の末裔であり、一過性のものではないのです。

 

 

 

 

文明十二年(1497年)六月

東日流国に来臨し給ふ天真名井宮義仁親王は

幕府討伐の兵を募りて先づ以て飯積高楯城を訊ねたり。

                     (東日流外三郡誌 第四巻 中世編⑶ 87ページ)

 

 

 

二百年以上経ても、この一族・末裔が

 

 

 

天内義光 行年四十二歳

 

右者藩許是無く度々鉄砲を秘蔵しあまつさえ御政道に反きて

党を隠密し、中山林中にて砲術を教伝

幕府討伐の謀を企らみたる事訴人に依りて明白なり依て茲に流罪六年を申付置き候也右罪如件

享保二年(1717年)十月        検視 青沼 花押

                      (東日流外三郡誌 第四巻 中世編⑶ 88ページ)

 

 

 

 

脅威となるロシアとつながりがあるのは、それ以外にもありました。

 

 

 

時に蠣崎蔵人   (略)

蒲野沢なる(新田)義純の金山を侵略して軍資を得たる蔵人は

安東師季に安東船をたのみ

韃靼国に渡りて軍備を得る兵器物資を買入れたり。

 

ホテレス、火薬、地雷火など異国のオロシア民族の強半弓、投槍、皮楯などを仕入れたれば

康正元年(1455年)十月、 次には馬をオロシアより買入れて茲に戦の備へ固まりて。

康正二年(1456年)十月、 南部政経の領に攻め入りたり。

                   (東日流外三郡誌 第四巻 中世編⑶ 397ページ)

 

 

戦には圧勝するものの

城に保管していた爆弾が大爆発し一万の兵馬がみるも痛ましき肉片となる悲劇も起こったようですが、、、

 

 

 

 

 

東国の、これらロシアとのつながり

1772年、ロシアから火薬を買い取ったことは 

幕府にとって倒幕をする国内外の勢力として認識され

この関係を潰さなければならない、、、

と幕府が判断したのももっともであり

 

また田沼意次の秘密裡に進めていた海外視察の情報がよそに漏れてしまったようです。

 

 

その後

 

 

天明四年(1784年)  田沼意次 長男刺殺

 

天明五年(1785年)  三春大火 (秋田氏の城下)

(お城・神社仏閣かなり広範囲に火が及び、安東・安倍・秋田一族が所蔵する古代・中世の莫大なる資料群がことごとく燃やされてしまう

風上に不審者らしきものがいた、という話も残っています。

 

天明六年(1786年)  田沼意次 老中依願御役御免

 

 

 

 

 

田沼意次の内密に依頼した海外視察を追求されプライベートな書状には

 

 

久しく無沙汰の段お許し願ひ、一書以て参上仕り候。かねての誓約、果すべくして果す事の得ざる失策の候は、この田沼の命運盡き候處なり。山靼巡察の候事は余が一存判断に候へば、諸事貴殿に及び候事なからんとぞ安堵あるべく候。山靼日記の候は江戸屆に候はず、貴殿一存に委ね候急筆乍ら飛脚参らせ候。

                  (北鑑50 十六)

 

 

 

幕府内の反対勢力によって、田沼意次が失脚していきます。

 

 

 

 

山靼の儀(海外視察の件)、空しく了り候は断腸の想ひに候。

 
今世界を無視に候へば、何れは鉄艦の火砲を諸湊に彈爆仕るべく舶来の敵に国は侵触仕るべく候。火砲一門その射程の候は、吾が国旧来の大銃に敵ふべくに非らざるは必如に候。是の憂え非らざる前に通商、開湊せざれば、国運のあるべく開運に遠のき候。世界は我が国より進歩の候は、百年の先進にあるべく候。よろしく議あり、北前一湊なりとも開湊あるべく御意見の儀、奏上仕り候。

               (北鑑50 十七)

 

 

 

海外視察見聞記は江戸城に行くことはなく

幕府の緊迫した状況下

命を狙われることにもつながり

海外情報を公にすることは許されず無駄になってしまった、、、

 

 

 

さらに仙台藩の林子平が上梓した

1785年 「三国通覧図説」(朝鮮、琉球、蝦夷の三国)

1791年 「海国兵談」

は松平定信により疎まれ発禁・版木没収の処分となります。

 

 

 

仙台藩といえば、

伊達政宗の命で、太平洋・大西洋を横断しローマを訪問したサン・ファン・バウティスタ号は

秋田実季に依頼し、安東船をつくった職人を集め頑強な船を造りましたが、

幕府はこれらの動きに脅威を感じ、帰国後すぐに解体するように命じました。

 

 

 

 

さてロシアの脅威に関してその後、幕府はいかに動いたかは

天地温古堂商店さんのブログで

間宮林蔵の視点で捉えた見事な文章がありますのでぜひこちらを

間宮林蔵の孤独な戦い①~択捉島の敗走、雪辱の決意~

 

 

 

 

 

さて 話を戻しますと

 

三春大火(秋田氏の城下)によって失われた古代・中世の莫大な資料群を取り戻すため

一族のプライドを賭けて、全国の寺社仏閣や各藩の所蔵する文献・資料を徹底的に集めた(模写した)のが

日之本文書(東日流外三郡誌・和田家資料etc)になります。

 

 

 

 

ですからたとえば安倍一族よりの資料もありますが、安倍一族を好ましく思っていない視点で書かれたものもあります。

忖度をすることなく、そのまま真摯に写したものであり、情報整理が必要であると次の文章にあります。

 

 

 

 

此の書は古事を求めて諸国に得たる記行なり。
寛政五年(1793年)九月二日           孝季

                           (北鑑40) 

 

 

 

 

当時は国会図書館もなくネットもありませんから、各藩で所蔵するそれぞれの書架で史書を保存しました。

 

 

 

 

 

長年かけて集めたものの一覧がこちらです。

 

 

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丑寅日本記、 丑寅日本紀、 北鑑

 

 

 

                     (北鑑 第六十壱巻  綴目録)


 

 

 

     これらが日之本文書です。