日之本文書(東日流外三郡誌、和田家文書等)は

なぜ生まれたか?

 

 

 

 

それは、一言でいえば 

ロシアの脅威 

からです。 

 

 

 

 

モンゴル近く、バイカル湖周辺(蒙古斑のルーツの場)を 

 

   1628年~1658年間に、ロシアが支配 

   1767年 ロシア人がエトロフへ侵入 

 

 

 

⇒これらが幕府に伝わり、一気に緊張が走ります

 

 

 

 

 

江戸幕府は鎖国中 

海外情報を、オランダによるレポートによって把握していましたが 

それらが感知しない脅威に対し、幕府は慄きます。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1772年 老中になった田沼意次

一番のミッションは敵情視察 です。

 

 

 

 

依頼するのは

 

 

中世、

中国・韓国・インドなど、日本列島で最大級の交易をしていた東北の一族であり

 

 

さらに古代~中世には、

北海道・樺太を北上し、アムール川を上り

モンゴル・バイカル湖周辺で、騎馬民族とも交易していた一族に 

敵情視察を依頼することにはじまります。 

 

 

 

それが

安東・安倍・秋田一族の直系

三春藩の秋田氏です。

 

 

 

 

田沼意次から秋田氏への書状から抜粋

 

 

早速に御承認下されたる儀、此の田沼、心して蝦夷地、千島、樺太の地に望み叶ふべく心しあるべく候。急ぎ江戸城大番方に御登城下され度く候砌り待詫び候。添認状、公議の許に候へば半藏門方に示すべく願ひ候。

 

大番に至るは、すべて申付居り候故に配心あるべからず、某を信じべく此の田沼が膽(肝)に銘じ置き候。御法度の議に候事、異土渡国に貴殿他その從属の者に何事の科やあらん。公議の決せる大事に候旨、安堵あるべく候。

 

 

北領探索の候は、あくまで隱密に御坐候へば、他言あるべからず心得べく候。能く林氏と謀り居るとの候は戒め候。高山殿へも是の如く候なり。津軽藩に在りき菅江殿にも然るべく候。委細、江戸城に謀り度く候。
右、返状の事如件。

                            田沼意次 華押 

(北鑑 第47巻 廿一/21)

 

 

 

 

 

 

北領探索のため、江戸城にきてほしいとのこと、

仙台藩林子平他にも隠密にてとの田沼意次の要望

 

 

 

 

 

老中田沼意次の心意に毛頭の疑、是無く候。

 

世は今、平賀源内の如くエレキテルの如く、科化学の進歩に當達せん文明開化に夜明のまたるゝ世の誕生近く候。

昔、安東船が海を道としその成果あり。山靼(モンゴル・バイカル湖周辺・アムール川流域)にもクリルタイの盟約にありしかど、今に續(続)かざるは幕府の鎖国に御坐候。

刀より鉄銃、弓より大砲銃、洋書の解禁、山脇東洋に次ぐ杉田玄白の解體(体)新書などの候は、何れも異土の参考なくして得るべく由、無く候。

 

吾等、今祖先の史を集むるに山靼を知るべく願ふても、尚無からざる公に科なき異土巡脚の旅を果す奇遇たりと覚つべく、御心得下されたく候。そちは文才ありて、余の從卆(従卒)に加ふれば、吾また心強く候。諸疑に迷混せず余に委し置き候へて、江戸城登城の儀同道願ひ奉り候。

                孝季

(北鑑 第47巻 廿三/23)

 

 

 

 

 

これは

ともに江戸城の田沼意次と、面会同行する人への依頼のようです

 

 

 

棚からぼた餅、天地の降りて湧きたる如く、

老中田沼意次の招く江戸城推参は、案の如くオロシア、サガリイ(樺太・サハリン)に大陸横断の基地をその島に造りて、亜細亜の波紫(ペルシャ)までも世界を巡見せよとの探索令たり。

依てその從卆(従卒)一行十七名とし、その費は三千両公儀内密令たり。

 

 

 

 

なんと

 

 

北領探索のみならず、昔一族が取引していた、騎馬民族による交易ルートをたどってほしい

 

交易でモンゴルまできていたトルコ、ペルシャにまで渡り、世界を見てきてほしい

 

一行十七名、費用三千両は幕府が持つ。これら内密にすすめるとのこと

 

 

 

 

 

 

 

幸いなる哉、安東船来の山靼(モンゴル・バイカル湖周辺・アムール川流域)しるべあり。語辨(弁)解書十六国語解書ありけるも、モンゴル書なれば、これを仮名字に書写仕りて誘ふ。

 

 

 

過去に、山靼との交易があったし、古書が残っている

 

 

 

 

 

時、安永壬辰年(1772年)にして、夏七月一日サガリイ島(樺太・サハリン)に至り、黑龍江(アムール川)に登航しチタに至りぬは九月一日なり。

モンゴルに入りてタリムの平原を越え、カブールに至りて安永乙未の年(1775年)に眞夏の八月たり。

既にして田沼氏に亜細亜(アジア)の調書六巻を綴りて、原田早苗氏をエイメンより支那を経て歸(帰)したり。

(北鑑 第47巻 廿四/24)

 

 

 

 

 

いざ出発、、

 

 

 

 

1772年、樺太・アムール川をたどり、13年間の海外視察に向かった17名

 

 

 

 

 

 

秋田孝季を巡脚の頭としてトルコ、アラビア、ギリシア、エスライル、エジプト、メソポタミアに古代オリエントの史跡を巡脚せるに、たゞ亜然たるの一語に盡(尽)きる巨大遺跡に驚きぬ。

何れも一萬(万)年乃至五千年前なる史跡なり。吾が国をして是れに睦ぶなきものにして、一行時をも忘れ写景を綴る耳なり。

 

 

 

トルコの地にてはヒサリックの丘に立つて、綿を摘むぐ古老に聞く傳(伝)説の數々(数々)、アララト山の洪水傳説の聖ノアの箱船、ギリシアのアクロポリスの丘なるパルテノン神殿、更にはペルセポリス、ペルシア宮殿遺跡、エーゲ海にてもクレータ島、サントリニ島とて然かるなり。

古代オリエントの古史にかんがみては、吾が丑寅(丑寅は東北の方角)日本国の史は、古代オリエントの古史に睦むるものなり。荒覇吐神とは、かく史の深きにありき。

(北鑑 第47巻 廿五/25)

 

 

 

 

 

 

 

13年間の海外視察から戻ると

 

日本の情勢は急変していました。

 

   (2)に続きます