小牧長久手の戦い、局地戦、「白山林の戦い!!」 | V系☆戦国コラムニスト「kuni」のblog

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「戦国時代」の明日を斬る!!☆kuniの奇妙な冒険日記☆




今回は、1584年に家康と秀吉が戦った「小牧長久手の戦い」。
その局地戦である、「白山林の戦い(はくさんばやしのたたかい)」の古戦場をレポします(*^^*)
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今、その場所は、本池ヶ原神社となっております。
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元は、白山神社という名前だった事が、手前の石碑から分かります。
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白山林の戦い、説明板。
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この戦いの発端は、遥か本能寺までさかのぼります。


本能寺の変で信長が没すると、次第に、秀吉が織田家を牛耳るようになります。


秀吉を良く思わない、柴田勝家は、清洲会議を経て、賤ヶ岳の戦いで秀吉と激突。



しかし、秀吉が勝利してしまいます。



ついに秀吉の時代がやって来ました。



それを良く思わない、信長の次男、織田信雄(おだのぶかつ)が秀吉と戦う為、家康とタッグを組みます。




そうして始まったのが、この「小牧長久手の戦い」です。



その「小牧長久手の戦い」には、本戦と言うべき戦いは、もしかしたら無いのかもしれません。


何故なら、局地的な戦いが複数あり、それらを全て足して「小牧長久手の戦い」と言うからです。



小牧から、長久手あたりの広範囲で繰り広げられたものなので、「小牧長久手の戦い」という、二つの地名が入った名称になってしまったのでしょうね(^^;;




そんな複数ある局地戦のなかで、「白山林の戦い」というものがあります。



この戦いは、秀吉の甥、羽柴秀次が味方の最後方で休息していた時におこります。


この時、第一陣、池田恒興は、家康方の岩崎城を攻撃開始。結果、大勝利となります。


第二陣、森長可。第三陣、堀秀政。そして、第四陣が、羽柴秀次。



秀次軍が、白山林で朝食をとっていた隙に、家康軍の支部隊が、突然の奇襲!!



三方向から攻め入られ、秀次軍は大混乱となりました。


僅か、1時間で壊滅状態になったといいます。



秀次自身は、自分の馬を見失い、家臣に馬を頼むも、断られる有り様。


ようやく、別の者の馬で敗走。


自分より前に布陣していた、堀秀政の陣営に逃げ込みました。


秀次軍の生き残った兵たちも、続々と堀隊へと逃げ込みました。


これらを吸収した堀秀政軍は、的確な判断で退却しました。



この「白山林の戦い」で、秀吉軍は敗色が濃くなります。
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小牧長久手は、「戦」では家康が勝ちました。しかし、秀吉は、やはり「人たらし」。

織田信雄をうまく説得し、和睦に持ち込みます。

「政治」では秀吉が勝利といえる戦いだったかもしれません。


信雄が和睦に応じた事で、大義名分を失った家康は、大激怒したと言います。


こうして、小牧長久手の戦いは終結しました。



先日行った、白山林古戦場には、春の風が吹き綺麗な桜が咲いておりました。
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この戦いは、私達、現代人にも良い教訓なのかもしれないですね(*^^*)


人心を掴んだ方が勝ち。


いつの時代にも変わらない哲学かもしれないですね( ^ω^ )