岐阜城と、織田信長 | V系☆戦国コラムニスト「kuni」のblog

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「戦国時代」の明日を斬る!!☆kuniの奇妙な冒険日記☆



岐阜城。
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言わずと知れた、天下の名城ですね(*^o^*)


この城が、過去、最も栄華に輝いた時代は、やはり、信長が統治していた時代。


ポルトガルから来た、キリスト教の宣教師ルイス・フロイスという人がいました。
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彼は、信長の生きた時代に、日本に来て、実際に信長と会い、報告書としてポルトガルに手紙を送っています。


近年、信長の人物像を知る上で重要な資料となっています(日本史)。



その手紙の中で、岐阜城は登場します。


彼は、山の麓にある、信長の居館を見た後、岐阜城の山頂まで登っています。


まず、信長に招かれ、フロイスが見たのは、


山の中腹にある、軍事用の塁(いわゆる曲輪)があって、


20人程の兵たちが、非常に物々しく警戒にあたっている姿。


そして、山頂に辿り着くと館があり、


中は、3つの広間に別れていました。



館の中は、(信長がこれまで征服してきた)領主の子息が100人以上いました。

彼らは、皆、信長に仕えている者である。とフロイスは記しています。


しかし、実際は、人質と考えて頂ければいいと思います。


余談ですが、彼らは、平素は非常に良い待遇を受けていましたが、

ひとたび、自分が統治する領主が、裏切ったり、謀反を起こしたりすれば、信長に容赦なく殺されていたでしょう。



さて、話を戻し、フロイスはさらに内側の部屋に招かれました。


そこには、世話をする婦人や、信長自身の子供たちが住んでいました。



信長は、フロイス一行をさらに奥へ招きました。


その一番奥の部屋は、美濃(今の岐阜県南部)と、尾張(今の愛知県西部)が、見渡せました。
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恐らく長い襖障子があり、それを開けると、広範囲が見渡せる部屋だったのでしょう。


この部屋は、金箔で塗られた屏風や、千本の矢が置かれていました。


ここで、信長とフロイスは、西洋における世界観や、価値観、

そして、世界の国々の様子などを3時間程語ったといいます。


後に、信長は宣教師に、地球は球体であると聞かされると、「理に叶う事だ。」と言ったと言います。
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これには驚きですね。当時の日本人は、当然、日本国内から出ていません。


船で世界一周して、同じ場所に辿り着いて初めて疑問が生まれる価値観ですよね。


当然、こういった話を聞いた後かも知れませんが、


普段、信長自身が生きる世界は平面です。


平面の世界でしかないものを信長は、いち早く、地球は丸いと理解したのは驚きですね。


さて、話を戻し、、、

フロイスは、晩餐の際、信長から異例のおもてなしを受けます。


信長はなんと、自らフロイスに膳を運んだといいます。


これには、家臣たちも驚いたといいます。


同じ、日本人には、こんな振る舞いを後にも先にもした事が無い信長ですが、


肌の色が白い、青い目をした異国人だからこそ、プライドや、自己崇高的な価値観を一瞬だけ捨てる事が出来たのでしょうね。


また、彼らは、信長が見た事が無い、

日本には無い物。日本には無い風習を伝え、


こういった、新しい価値観を信長はいっぱい取り入れていきます。



南蛮甲冑、ビロードのマント、櫓時計、ワイン、オルガン、コンペィトウ(現在の金平糖)、地球儀、火縄銃。グラス(ガラス)


これらは、中世から、近世に転換した、材料の一つとも言えます。



これから間もなく、戦国は、信長の手で終息を加速させ、安土桃山文化を花咲せ、江戸の大安の時代へと向かっていくのでした。