小丸城。呪いの瓦が見つかる!! | V系☆戦国コラムニスト「kuni」のblog

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「戦国時代」の明日を斬る!!☆kuniの奇妙な冒険日記☆


今回のレポは、ここ!!小丸城*\(^o^)/*
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この小丸城は、越前国(現:福井県)にあります(*^^*)


越前国と言えば、大阪と同様、一向一揆衆(武装した仏門徒)のメッカでした。



信長が朝倉氏を滅ぼした後、1574年(天正2年)に一向一揆が起き、越前は完全に一向一揆の国になってしまったんですね(^^;;



そして、1575年(天正3年)8月に織田信長は、5万の軍勢でこの一向一揆衆を殲滅します。


そして、信長は越前を柴田勝家に与えます。

勝家の下には、府中三人衆という、いわゆる補佐官を配置します。


府中三人衆は、前田利家(まえだとしいえ)、佐々成政(さっさなりまさ)、不破光治(ふわみつはる)で構成され、


利家には、府中城。光治には、龍門寺城。成政には、この小丸城を守らせました(*^^*)


築城年数も、1575年という事なので、

仏門徒を蹴散らして、すぐ佐々成政が築城を開始した事になります。


平地にぽっこりと浮かぶ小丸城。
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周囲には、堀も残っています。
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平城で、これだけクッキリと堀の遺構が確認できると、やはり、戦国ファンとしては萌えますね*\(^o^)/*
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小丸城に登ると、石塁も残っています。
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そして何と言っても、本丸虎口にある門!!
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素晴らしい、遺構ですね(*^^*)



門を潜ると、階段が鮮明に見てとれます。
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本丸に到着し、先ほどの門を振り返ると、こんな感じです。
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ここが本丸です。
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平城という事で、本丸まで徒歩1分で到着します(笑)。


門を上から見ると、一枚岩で出来ていて感動します。
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中世から、近世城郭に移り変わる転換期に出来た城なので、若干クオリティが低いのがまた萌えます(笑)。


そして、後に築城の名手と言われる、藤堂高虎や、加藤清正から見たら、佐々成政の造った城は、随分ヘタに見えた事でしょう(^^;;

まあ、時代が若干違いますが(*^^*)



本丸からの風景。西に行けば、龍門寺城があります。
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府中三人衆、みんな足して10万石だったといいます。




小丸城、説明板。
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1932年(昭和7年)には、文字が彫られた瓦が出土しました。



その内容は、コチラ★
↓↓↓


「後世の者に告ぐ。5月24日に一揆が起こり、前田又左衛門殿(つまり、前田利家)が、1000人を生け捕り、磔(はりつけ)そして、釜茹(かまゆで)にして処刑したので、ここに記しておきたい。」


この瓦は、一向一揆衆の1人が、何とか逃げて、生き延び、後に、敵であった信長軍に入り、佐々成政の下で働いた兵士が、この小丸城を築城する時に、こっそりと書いたものだと思われます。


非常に残忍な処刑を後世に伝える、貴重な資料ですね。



そんな小丸城。戦国好きなら、ぜひ訪れたいスポットですね*\(^o^)/*
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see ya*\(^o^)/*