顕進様の四つの基本質問、その二 (3) | 親と子の訓読家庭教会

親と子の訓読家庭教会

後天時代に於ける子女教育を考える

                    メシヤの使命とは何か?


「2000年に私は、真の父母様の遺志(Legacy)とは何なのかという非常に基本的な問題に関して教会のトップのリーダーシップに挑戦しなければなりませんでした。私がそのスピーチを行う前には、真の父母様の勝利は真の家庭の確立であったということを理解している人はあまりいませんでした。イエスはサタンが讒訴できない初めての『独り子』でしたが、命の木の意味する理想家庭を築くことはできませんでした。今教会が行っていることはサタンの業だと思いますか?誰の目的に仕えているかによりわかることです。」(訓読会:2015/8/30)

 
「教会の食口は自分の目に映る真の父母様の姿を眺めています。4つの核心的な質問が極めて重要です。メシヤは正にお父様の理想を成就する長子の座にいる者です。皆さんが真摯に訓読会を行い、お父様のみ言を読むと、99.99%が真の愛に関する、為に生きようという内容です。栄光や地位に関する内容ではありません。もっぱら為に生きようという内容のみ言です。」(訓読会:2015/9/6)
 
「私がなぜ基元節の重要性を強調しているのかを明確に理解する必要があります。その理由はこの日が真の父母と真の家庭と神様の主権の定着を表しているからです。『定着』という言葉を理解する必要があります。真の父母は、創造原理で説明されているように、神様のみ旨と一つになって、神様の二性性相を実体化させた存在とならなければなりません。もしもメシヤが復帰されたアダムとして来られ、真の息子、真の兄弟、真の夫そして真の父の基盤を立てようとする神様の献身的な孝行息子であるとすれば、復帰されたエバの立場に立つ人が成し遂げなければならない役割はなんでしょうか?自分のことでなくなった時にこそ、真の神性が輝くものです。それがまず神様のことであり、神様の真の娘としての先例を立てようとしている時であり、兄に対して真の妹としての先例を立てようとしている時であり、夫に対して献身的な妻の先例を立てようとしている時であり、子供たちが神様の愛の対象としての性質を現す時です。

アダムは神様の愛の権威を持っています。エバはアダムのあばら骨から創られました。ですから『独生女』という論議のすべては原則と自然の法則に反しています。家庭が崩壊する時に、その家庭の中心になるのは誰だと思いますか?父親でしょうか?それは母親です。家庭の責任は誰がとるのでしょうか?それはエバの失敗でした。ですから謙虚さと感謝が非常に重要なのです。女性は対象的存在なので、常に関心と賛美を受けたいのです。エバの失敗を覆して正しい先例を立てるためには、自己主管がかぎとなります。それは自分を天の父に従属させることであり、もはや自分のことではないのです。」(訓読会:2015/9/13)

「皆さんはメシヤが教会を作る為に来たと思いますか。イエスは再び来なければならないので、ペテロに油を注ぎました。皆さんはイエスの再臨が教会を作る為だと思いますか。しかしそれが私たちの指導者の考えでした。ある意味で私たちの運動はハイジャックされました。皆さんが聞いてきた全ての内容が神様の摂理と何らの関係もありませんでした。一旦私たちの運動が神様の摂理を去った後どうなりましたか、今の運動の状態を見て下さい。皆さんがその4つの根本質問、根本土台を理解するなら、メシヤは教会を作る為に来たのではなく、神様の究極的な夢、即ち創造目的、神様の主権を実現し神様の血統を立てる為に来たということがはっきりとわかるでしょう。」(訓読会:2015/9/27)

「二番目に私が質問したことは何でしたか。メシアの使命は何かということです。それは、神様の創造目的を完成して真の家庭を完成しなければならないということです。すべての人類が公認することができるそのような家庭を完成しなければならないのです。しかし、私たちはなぜ、男性メシアを語って、女性メシアを語りませんか。何故なら男が種を持っているからです。そのため、聖書に生命の木が主体の立場にあり善悪を知る木が対象としているのです。お父様が真の父母の位置を復帰するためには、妹の立場にある女性を育てて復帰されたエバの位置に立てなければならないと説明されました。その秘密は創世記の話に含まれています。お父様が勝利した神様の子女の立場に立つためには、まず神様の前に真の息子となり、妹の前に真の兄となり、妻の前に真の夫となり、子女の前に真の父母となり、メシアの立場では、全人類に真の父母とならなければなりませんでした。また、真の父母の使命を果たすためには、その相手となる神様が望んでおられる理想的な女性、娘と妹と妻と母の責任を果たした実体がいなければなりません。」(訓読会:2015/10/11)

以上、個人のノートから