良心に従うことは危ないことか? | 親と子の訓読家庭教会

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後天時代に於ける子女教育を考える

「自分達はは堕落人間なので、自分達の良心(本心)では、正しい方向性を判断することはできない。よって自分の責任者の言う事に従うしかない」と言う人が何人もいます。その見方は、一見妥当な見解の様に思えますが、本当にそうでしょうか? もしそうだとしても、われわれが最初に入教した時は、誰でも人の命令ではなく、良心に従って入って来たのは確かなはずです。それでは、入教する時は良心の声に従い、その後からは良心の声でなく、責任者の言う事に従えばいいのでしょうか? 私は、そうは思いません。私は、入教した後も、さらに強く良心(本心)を研ぎ澄まして信仰生活をしていかないといけないと思っています。その理由を説明する為に、今回はその良心(本心)について少し考えて見たいと思います。


ご存知の様に、御父様は良心は神にも勝るもので、我々の人生の道案内役として与えられたものと説明され、原理講論においてはその本心作用によって人間の復帰摂理も可能であったと説明しています。そして、それらの内容を調べてみますと、そこには先の疑問を解く最低三っつのポイントが含まれています。

その一)良心は完成するものではなく、心情が完成していくのであって、良心そのものは堕落人間においても全ての人々に最初から存在する。

その二)堕落によって良心が無くなったり小さくなったりしたのではなく、良心はそのままに、別の邪心が後から余分に付いてしまっただけ。

その三)良心と邪心、そしてその元となる神とサタンは、もともと共存できるものではなく、その二つの主人を持つ堕落人間は限りなく不安定な状態(原理で言うところの破滅状態)にある。

人間は堕落以後、神とサタンの中間位置に立ったと言いますけれど、この原理からいくと、実際の日常生活においては、その真ん中に立ってバランス良く生きていくことは出来ないし、その二つを中和させて生きていくという事も出来ないという事になります。何故ならば、神とサタンは創造原理による主体と対象の二性性相の関係とは全く違って、同じ目的を持って授受作用出来ないからです。


という事は、堕落人間はどんな極悪人であったとしても、長成期完成級まで成長したアダムの子孫である限り、一時的に、すばらしく清く、美しく、聖なる気持ちになる事も可能で、又反対にどんなに正しそうに見える人も、時にはまるでサタンそのものの様に恐ろしいほど残酷で、自己中心な心を持つことも可能であるという事になります。つまり、堕落人間は、その人生行路に於いて日常茶半的に、時には朝な夕な、両極端な霊界を行ったり来たりしている、悲しい存在という事です。これでは、神がアダムを立てて復帰摂理ができなかったのもあたりまえで、アベルとカインを立てて善悪分立せざるをえなかった事もうなずけます。

つまり、いつも心が移り変わる様な堕落人間であったとしても何が正しいか正しくないかは、私達の良心において基本的には既に知っているのです。その為に神は最初から私達に正しいしい方向を見つける為の霊的コンパスとして良心を下さったのです。ただ、本当に神側に帰っていけるかどうか、成長できるかどうか、そして最終的に完成できるかどうかは別問題です。何故ならば、それは良心から来る正しい心を保ち続ける事が出来るかどうか、そしてその正しいと思うことを実際に行動に取るかどうかによって決まってくるのです。