サイトのトップページでもそう書いているから、私のところには姿勢を良くしたいといってやってくる方がいる。

普通の人は問題はない。

腰痛や肩凝り、過呼吸や喘息、その他の姿勢との関係性を疑われるような苦しみで私のところを訪れてくださる方々。

彼らについては何の問題もない。

私も全力を尽くすので共に頑張りましょう。

皆さんの喜びは間違いなく私の喜びです。

 

 

問題は長時間の瞑想に耐える体が欲しいといってやってくる連中。

特に仏教徒いや仏教オタク。

はっきり言ってもう来て欲しくない。

ていうか来るな。

仏教を信仰をしているというくらいだから、何よりも仏教が大切だという気持ちはわからなくはない。

しかしそれを私のところに持ち込むな。

あんたがたにとってはありがたい結構なものなのかもしれない。

しかし私の目には、長時間の瞑想を要求しながら、それを可能にするための身体をつくるメソッドを持っていないというのは、ただの欠陥品だ。

愚にもつかない欠陥品を意味もわからずありがたがっている愚か者。

もし私のところに来るならそれをわきまえてから来い。

 

 

他人が一生懸命やっていることをくさすようなことはいいたくはない。

しかしまるで私が仏教を信仰しないのがおかしいとでもいいたげな態度をとるなら、やむを得ないだろう。

キチガイどもが。

 

 

宗教でもヨガでも瞑想でも武道でも、他のものを持ち込むな。

 

 

見ているとこういう連中はキャリアにおいてせいぜい1年から5年。

ビギナーだね。

楽しくてしょうがないんだろう。

(笑)

 

 

「ここは姿勢だけ何とかできりゃいいんだよ」

プラーナのコントロールやそこから引き出される幸福や自由の概念の変化について語ろうとすると、こうほざいてさえぎる。

馬鹿に付ける薬はないがひとつ教えてやろう。

姿勢と呼吸は関連する。

呼吸はメンタルな要素を大きく含む。

これで充分だろう。

その学び方では姿勢すらものにはならない。

身体の奥深く、横隔膜は動いてはくれない。

身体内部の緊張を変えることはできない。

虚心坦懐。

意味がわからんのならググれ。

 

 

そういえば幸福なんてないんだ、肉体がある以上自由なんてないんだ、と叫んでいた仏教オタクがいた。

この一年私がここで書いていることを読めばわかると思う。

それは単なる無知と未熟だ。

愚かしい。

 

 

ときどき引き合いにださせて もらっているdondrup氏はチベット仏教を14,5年学んでおられる。

桁が違う。

そしてそれだけ長く学んでおられるから、それはそれ、これはこれ、で学ぶことができる。

また他のSNSでは「行ができないと時間を無駄にした気がする」と語っておられる。

真剣に学ぶというのはこういうことだ。

私も心眼流の稽古やヨガの練習を一日さぼると、自己嫌悪に囚われる。