ヒロです。
音楽も踊りも、スポーツも、うまいのが観たい(見たい)です。
感動をもらえるよね。
この人のを見たいなぁ、とか、素晴らしかったから、もう一回見たい。とか。
芸術的なセンスだけではない、体力的なことも含めて。
競技だとすると、入賞に値するもの。(フラの場合の入賞、というのとは違うかもですが)
要は、キレキレのパフォーマンスと芸術的な表現力。
体格勝負のスポーツだと、大きい選手が優位のものも多いですが、
その大きさとは、身長、体重だけを表すのではなく、筋力、柔軟性、瞬発力などなど、
その値が大きいと、当然強い。
芸術点では、アーテスティックスイミングや、フィギュアスケートなど。キレキレの踊りと共に、精神面でのすばらしさも大切ですね。フラもそう。
ちなみに、自衛隊では、体力検定というものがあり、反復横跳び、垂直飛び、体前屈、握力、急歩、ジグザクドリブル、の値によって体力1級から5級に分類されるし、もし自分が、誰かにお願いすることがあったら、当然体力があるひとにお願いしたいよね。
小、中、高校生の部活動を例示してみたい。体力面だけの話しですが。まあ、今の時代こんなことさせている学校はないでしょうが、実際にある話です。
例えば。
1,000本ノックを受けたところで、守備は上手くならない。
シュートを1,000本打ったところで、足が壊れるだけ。
これら、まったく精神論に頼るような運動の基礎が分かっていない指導者についてしまうと、大変ですね。
自ら望んでいく場合はそれがいいのでしょう。
これら、懲罰的な練習は、少なくなったとはいえ、まだまだ日常的に行われていて、これら、ただ体を壊すだけの、意味のない指導は、生徒に優劣をつけ、わざと優劣を振り分けるための手法としか言えない。
これ、アカハラですよ。
その時点で学校と親と本人との信頼関係は崩れ、本人は、本当につらく、鬱になったり、登校拒否を起因する。
大体の場合、
「オレが、高校生の時は、これをやって強くなったんだから、したがって、お前たちもやれ」
のような、部活の先生や監督は、自分の過去の栄光にすがり、それを生徒たちに押し付ける態度に他ならず、現在も、「指導」という名のもとで行われている。
科学的根拠に乏しい。時代錯誤も甚だしい。
監督の言葉は絶対だから、日大のアメフト部のように、わざとタックルさせたりするわけで。でも、これが、学校の伝統とか、日本の文化だとする人は少なくない。
目には目を。
やったらやり返す。
それでも生徒は自分の居場所をそこにしかない、と錯覚するから、いくら厳しい指導や嫌がらせを受けても、また元通りに戻っていく。そうやっていじめが隠蔽されてきたし、これからも隠されていく。
まるで、ハーラウやめた人が、また元のハーラウに戻っていくのと同じ。
ただ、積極的に新たなことを始めようと、学校内で考えて進めていこうとする先生もたくさんいることは事実ですが、実際、何かを変えようとすると、煙たがられるでしょう。
先生同士の、近からず遠からずの、「疎」な結びつきは、他の先生に意見することさえ躊躇させます。
おおよそ、公立の学校、という域を超えない。
ただ、特色のある学校は、教職員の意識が高い。学校長のイニチアシブの高い学校と言えるだろう。
私は長年、運動の指導と、健康の指導に携わってきて、指導者の「指導側の意識」は、大きく変わってきていることは実感します。ただ、これはクラブチームや、習い事教室に当てはまり、教室も変革や新たなことを取り入れる努力をしています。生徒が居なければ教室の運営が成り立たないから、先生や講師も、新しいことを取り入れようとするから。
でも、一番大切な小学生から高校生の部活動では、選手が自分の意見を先生や監督に言うことが憚れれる「これこそ、日本古来の伝統と文化」という考えで一蹴され、科学的な考え方を寄せ付けず、先生には逆らえない、という絶対的な上下関係がある。
そもそも学校の先生だからね。
グーグル先生のほうが、優しく教えてくれるのに。
まあ、日本語の独特の、尊敬語や丁寧語というものが、先輩、後輩、を生み出しているから、上下関係なく、みんな平等に、という行動まで行きつかないのだろう。そこから、いわゆる「いじめ」の問題に波及していく。
強者、弱者は、先輩、後輩のような上下関係が存在する限り、体格的に劣勢の下級生はどうしても虐められる。
また、この考え方を実践して、それで大会で勝ってしまうと、周りからちやほやされ、「俺様の言うことはあっている」という成功体験を手に入れてしまうことで、その締め付けはさらに厳しくなるでしょうね。
でも、負けてしまうと、もっと練習が足りないからだ、となるわけで、まあ勝っても負けても、締め付けが厳しくなる。
いくら厳しい指導であっても、生徒は学校を辞めることはないという指導者の奢り。
そして、スポーツ推薦者はもっと酷い仕打ちを受けても、耐えるしかなく、辞められない。
この考え方は、保守的な日本では、絶対になくならない。新たな変化を求めるよりも、その保守的な中で実権を握ったほうがいい、という考えを持っている人が多いからですね。今の政治の構造と全く同じ。
フラでは、うまくできたら、生徒の手柄。
うまくできないのは、先生のミス。
と言われます。
一方、
うまくできないのは、お前らのせい、
うまくいったのは、俺の手柄。
のような・・・。
完全に真逆ですね。まさに昭和世代。
一方で、「練習は嘘つかない」。
厳しい練習を積まなければ、勝てない、となる。
じゃあ、本来の、練習を頑張る、というのは、どういうことか。
私はフラを指導しているので、フラで考えると、Uweheを1000回やれ、のようなことはない。足が壊れるよね。
間違ったフォームでやったって上手くならない。もし、やらせたいなら、まずフラができる体力を持つための、準備として、
体力の構成要素の練習は
ふくらはぎ、太もものトレーニング、
バランス練習
足首の固有受容器の促通
柔軟性
技術の練習は
曲のリズム感、
打楽器の音との協調
上半身と下半身のバランス
それ以外にも、
支持基底面、重心の移動の練習
これらを、フラのレッスンのなかに取り入れていく。
これらができてから、実用的なフラの練習になります。
簡単なことなら、すきま時間を使ってできることもたくさんある。
だから、自分の時間のコントロールができれば、いつでもフラは上手くなる。
テレビ見てる10分があれば、その時間に、オリの1本でも発声練習すればいいよね。
ウクレレ10分練習すればいいよね。
ただ、その次が問題です。
実際のフラの技術的な指導を先生から受けるとしたら、
フラが踊れるから、インストラクターやっています。
という先生と、
体の使い方を理解して、上手く踊れるための下準備からやり、フラを上手くさせます。
という先生のどちらを選ぶか。
ですが、この2つは、そもそもの、フラの指導方法、考え方が違います。ですのでどちらも正解。というか、正解は、ない。
なぜなら答えはご自分で決めて選ぶことなので、どこで、誰に、何を、習おうと、自由。
失敗するかしないかは、事前の下調べや、体験してみて、自分で判断することです。
仮に判断が間違えたら、辞めて新しいところを探せば良いだけです。
とはいえ、そこで人間関係が足を引っ張るのであれば、その人間関係もやめてしまえば、スッキリします。
ご自分にとってのフラの先生の選び方の結論は、ご自分で考えることです。
あなたにとっての先生が、ご自分のフラの世界を広げる結果になるか、
フラやハワイを色々教えてくれる楽しい時間が過ごせるか。
はたまた、人間関係や上下関係に悩ませる結果になるか。
今日のおやつは、カウアイ島のクーロロ。