ヒロです。
今日は少し重たいです。ルール、ポリティカル、真実について。
スポーツには、ルールがある。
反則をすればカードが出され、レッドカードを受けた選手は退場する。その選手が有名であろうと無名であろうと、本来は平等であるはずだ。だからこそ、人々は競技を信じることができる。
ところが先日のワールドカップ。
レッドカードを受けた某国スター選手の出場停止処分をめぐり、大国のトップが国際サッカー連盟に働きかけたと報じられた。結果、処分が覆る可能性が生まれたという。
判定の間違いは正されるべきだ。しかし、ここで考えるべきは別の問題である。
「小さな国の無名の選手であっても、同じようにトップが電話をかけ、それが通るだろうか?」
ルールで決まるはずのことが、権力によって動く。その瞬間、競技は純粋な競争ではなくなる。
そこに残るのは、「誰が正しかったか」ではない。
「誰が、より大きな力を持っていたか」である。
世論は自然に生まれるとは限らない
私たちは「世論」を、多くの人々が自由に考えた末に生まれるものだと思いがちだ。しかし、本当にそうだろうか。
世論は、意外なほど簡単に曲げられる。
大きな声で繰り返し語られたこと。
有名な人物が支持したこと。
メディアで何度も取り上げられたこと。
そうしたものを目にするうちに、私たちはそれを「社会全体の意見」だと思い始める。
しかし、それは最初から多くの人がそう考えていたわけではないかもしれない。
一部の者が持つ力は、ときに銃のように強い。実際に撃たなくても、その存在だけで反対意見を持つ人を黙らせることができる。
「反対すれば、仕事を失うかもしれない。仲間から外されるかもしれない」
そう思わせるだけで人は自分の意見を飲み込み、その沈黙を見て、さらに多くの人が「みんなが賛成している」と思い込む。
日本を見ていても同じだ。政策の中身よりも「誰が発言したか」「どの組織に属しているか」が重視され、現場で困っている小さな声はかき消されていく。 だが、政治力によって決まったことと、真実は同じではない。多数に見えることと、正しいことも同じではない。
それが「政治力」「ポリティカル」というものなのだから。
芸術、フラ、音楽の世界にある「ポリティカル(政治力)」
人が集まり、組織がつくられ、利益が動く場所には、必ず政治が生まれる。 会社、学校、そして芸術やスポーツ、フラの世界にも、音楽の世界にも、それは確実に存在する。
表向きには実力だけが評価されているように見えても、実際には人間関係、師弟関係、団体同士のつながり、金銭、知名度、組織の都合など、多くのものが複雑に絡み合っている。その構造を無視して「これが正しい評価だ」言い切ることはできない。
近年、日本でフラのコンペティションが増えている。 舞台が増え、挑戦の目標ができることは素晴らしい。
しかしその一方で、参加者が集まらずに淘汰されていく大会も出てきている。
審査への信頼を失い、参加者が離れているから。
フラの世界は広いようで狭い。審査員と出場者、あるいはその指導者が、何らかの師弟関係や仕事上のつながりを持っているケースは珍しくない。 自分の教え子が出場していれば、応援したくなるのが人間の自然な感情だが、そこには明らかな「利益相反」の可能性がある。
教え子が受賞すれば指導者の権威が上がり、ビジネスも回っていくからだ。
問題なのは、審査員個人が不正をしているかどうかではない。不公平が起こり得る構造がありながら、それを「個人の良心」だけに任せている制度そのものの脆弱さにある。だからこそ、利害関係の開示や採点の開示といった透明性が不可欠なのだ。
賞が、芸術の真実を決めるわけではない
そして同じ構造は、音楽の世界にも全く同じように存在する。 私は全米グラミー賞の会員の一人として、由緒ある音楽賞のあり方を見ていて、強い疑問を抱かざるを得ない出来事がしょっちゅうある。
音楽賞とは、優れた作品を称え、文化を次世代へ繋ぐ華やかな舞台であるはずだ。しかし、人間が評価する非公開の審査には、必ず人間関係や組織票、知名度や業界のつながりといった「政治力」が入り込む。
長くその世界にいる人、
多くの仲間を持つ人、
組織の中心に近い人の作品が、自然と有利になる。
いつの間にか「優れた作品」と「業界内で選ばれやすい作品」が混同されていく。そして、その輪の外にいる者の作品は、そもそも十分に聴かれることさえなく弾かれる。
しかし、賞に選ばれなかった作品に価値がないわけでは決してない。審査結果が示すのは、その年、その制度、その人間関係の中で「その作品が選ばれた」という政治的な事実に過ぎず、音楽そのものの絶対的な価値ではないのだ。
本物は、結果の外側に残る
フラのコンペティションで決められるのは、「その大会の、その日の順位」だけだ。
音楽賞で決められるのは、「その制度の中で選ばれた」という事実だけだ。
本当にメレ(歌)を深く理解し、文化に誠実に向き合っていたか。 ハワイ語の母音や子音を丁寧に発音し、言葉の意味を理解したうえで歌っているか。 編曲や演奏、録音のすべてに時間と心を注ぎ、その音楽が生まれた土地と歴史に深い敬意を払っているか。
それは、点数表やノミネートの有無では決して測れない。名前を隠し、先入観を捨てて、音だけを聴き、踊りを見れば自ずと分かることだ。文化をただの装飾として利用しているのか、それとも魂を込めて表現しているのかは、音の中にはっきりと残る。
政治力は、結果を変えることができる。レッドカードを消し、審査結果を動かし、特定の誰かに賞を与えることはできる。しかし、本物ではないものを、本物に変えることは絶対にできない。
本当に良いフラは、点数表の外側でも伝わる。
本当に良い音楽は、賞やノミネートがなくても人の心に深く残る。
私が紡ぐ音楽も、フラも、時間がたっても決して価値を失わないと確信している。
最後に残るのは、誰が勝ったかではない。誰に賞が与えられたかでもない。 その舞台に、どれだけ真実があったか。
その努力の中に、どれだけ誠実さがあったか。
そして、何が「本物」だったかである。
所詮、ポリティカルを掌握できない「負け犬の遠吠え」だとしても、
いずれ、ほころびが、風評のごとく、分かる日が来るから。
今日はお墓参りの日。
少し気持ちを落ち着けて。。。