少し難しいお話です。
生活の水準を上げる。
漠然と良い暮らしがしたい。として、
例えば衣食住を充実させるとしたら、
高い服を着て、
高いご飯を食べて、
高い家に住む。ということになるのだけど、
実際、ファストファッションでユニクロやしまむらの服で十分で、
時短メニューのご飯や、外食の安いファストフードでもOKだとして、
タワマンじゃなくても、賃貸や、実家で十分楽に暮らせる。
高級にならなくても生活は充実。
そんな生き方はアリですね。
例えば、高い時計や、高いバッグ、宝飾品を持つとして、その価値が、自分の周りと比べて、の相場観から、高そう、とか、あの人の時計より私のこっちの時計の方が高い、とされて、高いものもってるとしたら、人が持っていないものを持っていることで、少なからず優越感を感じたりする。
でもこれは、全て自分の社会の中で、の話で、
自分がお付き合いのないハイソな社会の中では、自分の生活水準は大したことではない。
とか、
逆にもっと生活水準が低く、普段のご飯もなかなか食べられない事情の人達の中では、自分はとても恵まれている、と思うわけ。
たまたま就職した会社が当たりの企業だとして、自分よりも大した仕事をしてないのに、お給料も高く、おやすみもたくさんあって、仕事も楽、というところの人は沢山ありますが、
そういう考えこそ、他人と比較しているから。
もし、比較対象がいなければ、劣等感は、全くない。むしろ、ありがたみを強く感じるはず。
毎日ご飯が食べれること、
住む家があること、
どこかに行こうと思えば車もある。
つまり、自分は恵まれている。
あえて、他人と比較をしたとして、私の生活圏の中には、ものすごくバブルな、ハイソな生活をしているような人もいれば、
その一方では、食事も満足に食べれず、住む家も定まらず、車もない、という人はとても沢山います。
他人と比較をすることで、自分の社会的な立ち位置を考えるより、大切なことは、今置かれている生活でとても満足していると考えると、とても生活が有意義で、充実するものです。
私は、フラを伝える機会があること、フラと向き合って生活できることで、とても幸せで、そこに沢山の生徒たちに出会い、時間を共有できることに、最大の価値を感じているので、
正直、他のことはどうでも良い。
だから、身なりはいつもTシャツで、ビーサンで、、、となるから、身なりはしっかりしなさい、と、母が生前よく言ってくれて、怒られていたくらい。
植物育てることが好きだから、高い靴より、高い培養土や、高めのハイポネックスの方が価値があると思うし。
少し極端ですがそういうことです。
いいビーサンのほうが、革靴より大切みたいな。
車も、今乗っているのは、新車から11年乗っている国産車ですが、十分だし、都内の駐車場も借りれていることに感謝です。
高い車に乗りたいと思ったこともありますが、私にとって、高い車が欲しい。ということにステイタスを感じない。
ローン組めば買えますがそこまでの価値は見いだせないし、
そのお金があれば、もっとフラのことに使うべきかなと。
フラのことをハワイのハーラウと比較するとしたら、ああなりたい、とか、の憧れる気持ちはあって、そこに近づく努力を続けたいけれど、
フラは、上手くなるのが目標ではなく、コミュニケーションの手段なので、フラが自由に操れるようになること、知識が増えることは、あくまで通過点です。
まだまだ、私にとってのフラは、中途半端。もっともっと考えて、もっと学んで行かないとですが、生きるタイムリミットが近づいて来ていることを感じるので、全て前倒しで、生き急ぐくらいに、やることを急いでいます。
全て他人と比較をすると、辛くなるよ。
人と同じことをしなければならない、ということはない。
人は人。
自分は自分。
これから先の、自分のあるべき生活の形、自分の姿をイメージして、どう生きるか、どういう道を選んでいくか、幸せで価値の高い生活をどう送っていくか、よく考えたい。