日本のフラ教室で、理解できないことの1つに、年齢制限でカヒコ(古典型)は習えない、と決めつけられていることがあるようなことを聞いたことだ。
教えないとする先生は、そもそも若い人にカヒコを教えているのだろうか?
オリを正しく教えることが出来るのだろうか?

特にクプナに対しては、体力的に無理とか?と決めつけられ、教えてもらえないようだが、それはかなり強引な決めつけだと感じる。
簡単なカヒコもダメなのか?
ノホなら座って簡単に出来るのに、それすらダメか?

そもそも日本ではカヒコは別扱いされるようだ。
フラはカヒコもアウアナも分けて考える必要はない。分けて考えさせているのは、フラの先生側の事情のようだ。

先生ならカヒコもアウアナも、当然両方知ってなければならないし、ハワイ語の理解、ハワイの地理的な理解、歴史の理解が必ず必要だ。
伴奏するならイプヘケは必須。まさかCDで、カヒコを教えるなんて考えられないし、見たくもない。

なぜカヒコができないか?答えは簡単で、それはカヒコを知らないからだ。
知らない、すなわち伝えてもらっていない。自分のクムから伝えてもらっていない、習ってない、ということになる。
確かに全てのカヒコを自分のクムから伝えてもらうことには無理があるし、新たなメレにコリオグラフィーを付ける場合もあるし、独自なモーションをつける場合もある。これはアウアナ同様。
でも、トラディショナルなものは最低数曲は伝えてもらうものであるし、むしろ新たなコリオグラフィーに挑戦していくなら、まずは、トラディショナルな曲を通じてオリの発声、Pa'iを学ばなければ無理だ。ハワイ語のオリの発声は独特だから、習わないと絶対ムリ。
それがない。ということは、教えるための知識がそもそもないわけで、これはその先生の問題だけではなく、その先生のクムにも、問題がある。
しかし、通常、ハワイ人のクムが、自分の弟子である生徒に対しカヒコを教えないなんてことは到底考えられないから、その日本の先生はクムにカヒコを教わっていない、のではなく、フラそのものをクムから習っていない、すなわち自分にはクムがいなかったことを認めざるを得ない。
しかし、それを是認しない。
まあ、ワークショップ程度の繋がりの生徒には、教えないかもね。

フラを学ぶなら、カヒコ、アウアナの別なく、フラに向き合って欲しいところです。

私は、ハーラウという人の集まりについての考えを持っていて、それは、その先生の名前の下に集まる独断的なものではなく、ハウマナもハーラウの一部であり、同等であり、家族であり、年齢や性別や、社会的地位を超えた良き仲間である。だからこそ本気で怒るし、本気で付き合う。
そのハーラウの中において、フラを伝える先生の立場は、指導者だから偉い、とかということは、全くない。フラは、生活の中にあるもので、特別なものではない、という考えに基づく。
これは、フラに限ったことではないが、他のダンスや習い事と大きく異なるのは、生活の中にあるものか?それとも技術を教えるものか?という大きな違いがある。私は、ほんの少しだけ、生徒よりもフラに出会った時期が早かっただけだ。だから、生徒が時期を迎えたら私のような役回りになるはず。すなわち子供が大人になり、という伝承の連鎖が起こるということだ。
なので、主に技術を学ぶ、社交ダンスや、ヒップホップなら、ダンスのためのインストラクター養成クラスのような考え方も存在するだろうが、フラは、ダンス教室のような考え方は当てはまらない、と考えている。
生活の仕方のお手本が、特別必要か?
生活上のしつけ役、教育係、面倒を見るのは年長者と考えれば、ハーラウ在籍が長い人から入りたての人に助言をしていく、という考えが私には腑に落ちる。

フラは生活の一部だから、ということに気づかない人は、わざとフラを特別なダンスとして定義付けから、自分の大切な生徒のことを、単なるお金をくれるビジネスのお客様として、蔑視するようになる。
人にフラを指導していることがとても偉い、かの如く、ハナタカさんになって、とんだ勘違い人間になる。高圧的な態度で、時間を稼ぎ、また、私の言うことがきけないのか?のような態度をとる。
そのうちボロが出で、先生への求心力は次第に低下していき、自分の生徒達は外部のワークショップに出て、本物のフラに触れ始めたり、他の教室に移動したりして、新たな居場所を探していく。

自分の知っていることは教えてあげるのは当たり前。
箸の持ち方を教えるのにお金を払う?

写真は、Paleの編みかけ。頑張らなきゃ。