外国人というか、外国語話者ということになるのだけど。

 

まず外国人と言っても色々で。

 

もちろん、日本人だって色々なんだけど。

 

特に外国人の色々さというのはなかなか。

 

 

たとえば、4年生とか5年生くらいで、日本語はまるで話せないけどひらがなだけは覚えてきましたという、中国以外の国の生徒さん。もう、ある程度は母語の能力が固まっているので、進むのは早いし、ちゃんと自分で調べて学習するようなこともできる。ただ、漢字の概念は全く無いので、ひらがな、カタカナをしっかり学習しながら、どうやって漢字に慣れてもらおうかなというのが悩み。

 

これが、同じくらいとか中学生くらいの中国人だと、漢字は知っているわけなので「しろい くるまが はしる」というのをイラストを見ながら漢字を書いてみてと言うと、大体漢字は書ける(車は簡体字になるけど)。基礎的な文章については最初から漢字混じりで教えてしまったほうが早い気がする。だから、公文教材の漢字のプリントではなくて、あえて幼児向け教材を使って漢字の勉強をさせたりする。

 

幼児さんだと、どうしても日本語も知らなければそもそも日本で一般的なものを母語でも知らなかったりする。これは多かれ少なかれ幼児以外でもあるのだけど。「すみれ」「らくだ」「しんかんせん」「こま」なんて。どこの国にでもあるものではないのだ。文字を覚えるだけでなくて、言葉を覚えてもらうことも必要になってくるから、一石二鳥のようでもあり、大変なようでもある。

 

これだけ違うと、おなじ「日本語の初級から」と言われても、どんな教材を使ってどうやって学ぶかということは、千差万別ということになる。

 

一番最初の教材から順番にやっていけばいい、ということではなくなってくるのだ。

 

一人ひとりの知識量、日本語への取り組みの姿勢、理解力、そして漢字文化への理解度。

 

そういったことを一人ひとりについて把握しながら、それぞれにあったやり方をする必要があるのだ。

 

もちろん、ある程度何種類かのやり方には集約されるにせよ、習得していく中でやり方も変えていかなければならないし。

 

全く同じに学習していけるということはないんじゃないかと思う。

 

ついでにいえば、それぞれの母語で日本語の子音のなかで母語にない子音があったり。

 

それから、大体の言葉は日本語のような膠着語(格助詞で文法上の役割が決まる)ではなく語順で文法上の役割が来まる(文頭にある単語が主語になる等)ので、その違いも意識しておいてあげないといけない。

 

また、教材に出てくる「一休さんの師匠」が「お坊さんなのにバカにされる存在である」ということは東南アジアの人たちには理解しがたかったりするようだし、「水色」の概念がない国は多いし、「あめんぼ」も「たけやぶ」も「わらじ」も説明するのに随分苦労した。「いぬ」「ねこ」「きつね」は結構共通でも「たぬき」はみんな「?」である。

 

公文の国語教材は何もかもが「日本の常識は知っている」ひとが学ぶことを前提に作られているから、外国人の子弟が使うには結構色々と指導者のアレンジや説明が必要なのだ。時には画像検索や動画まで見せて説明することもある。そんな中でも、仏教国の生徒さんには「仏様」「念仏(国によって発音は少し違うけど基本は似てる)」はまあまあ説明しやすかったり、中国人や東南アジアの生徒は「論語」「孔子」を知っていたりということはある。


そうなると「あなたのおうちの宗教はなに?」ということも場合によっては聞くし、ムスリムの生徒さんだったらハラルとか聖像禁止みたいなことも意識してあげなきゃいけない。

 

とにかく、すべての常識を疑いながら、それぞれの生徒さんにあった指導をすることが求められるので、外国人向けの国語指導は、国語指導を通して世界の文化との差を感じることができて本当に面白い。


パディントンの絵を見て「くま」と思わない生徒だって結構いるのだ。


また、外国人の目線を通して国語教材を見つめることで、改めて国語教材がどういう性質、どういう構成になっているのかを多角的に見ることができて、理解も深まり、日本人の教育にもフィードバックができているし。


とにかく面白いのだ。