お久しぶりです。アメブロなかなか書けず、うううむであります。

 

 3月は怒涛の如くいろいろありましたが、皆様はいかがだったでしょうか。

 

 星の動きが活発だったのだけど、その動きは私にとってはそうしんどい感じではなく

 

 むしろ呼吸しやすくなってきたような気がします。

 

 空気感っていう言葉を使うのですが、本当に自分なりの「せいいっぱい」を体験していく

  

 時代が始まったんだなと感じています。

 

 そんな中、初スマナサーラ長老の瞑想会に参加してまいりました。

 

 スマナサーラ長老は、スリランカのご出身で日本テーラワーダ仏教協会の長老。

 

 タイ伝統医学を学ぶものとして外せないのが、「ヴィッパサナー瞑想」またの名を

 

、「気づきの実践」というもの。

 

 スリランカもインドから、このテーラワーダ仏教(ー私の中の解釈ではインドで仏教が生まれ

 

 その原始仏教的な教えが伝わったもの。という解釈をしています。)が伝わったとされています。

 

 インドから中国やチベットそして韓国から日本に伝わってきた仏教を大乗仏教というのは

 

 ご存知だと思うのですが、インドから中国へと伝わった仏教はいろんな土地に伝わっていくなかで

 その土地の神様とくっついたりして、マントラを唱えたり、お願い事をする神秘主義的な

 ものが合わさったのに対して

 上座部仏教(最近は、上座仏教ということも)は、自分を解く。自分一人で悟りを開いていく。

 

 し、227の戒律を守っていかなければならない、厳しいといえば厳しいのですが

 

 私は、上座部仏教の方がなぜかしっくりくるのです。

 

 大乗仏教ー悟りを開いたものが、仏となり自分だけでなく生きとし生けるものをすべて

         救う(悟りを開

 上座部仏教ー出家して自身の解脱を目指す。

 たくさんのインターネットの中では

 上座部仏教を「自分自身を助けるために、自分で出家して自分で修業をする」と書いてあるのですが、

 

 私の中ではそれだけではないものを感じるのです。

 

 タイに行き、メイチ(修道女ータイは女性は出家できないのでお寺のそばなどで、僧侶たちと 同じように(戒律は少ない)けど仏道で暮らす方々)と一緒に暮らさせていただいたり

 僧侶の方々とご縁いただいたりするのですが、ただ自分の救済のためだけに。

 と感じた人はいませんでした。

 

 むしろ 日本でのほうが窮屈さを感じたりしていました。

 長くなったのでまた。

 

 読んでくださりありがとうございます。

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