私はこれまで、何回かに分けて、死後の生命について考察してきました。


どこかのアンチブログの管理人さんが言っていたように、「死んだら終わり」なら、身も蓋もありません。
どうせ「死んだら終わり」なら、現世で享楽的に生きる人が増えるでしょう。

欲望にまかせて悪事さえ行う人が出てくるかもしれません。

「死んだら終わり」なのか?   2021-10-08

キューブラー・ロスの死生観   2021-10-09

海の表面の波          2021-10-10

"エネルギー保存の法則"と死後の生命 2021-10-11


いろいろ書いてきましたが、所詮自分が死んだあとどうなるかは、経験してみないと分からないので証明することはできません。

でも、証明できないところにこそ、宗教の役割があります。
死後の生命はこうなるんだよと宗教が教えてくれ、それが心の安心につながるなら、それはそれでよいことだと考えます。


さて、日蓮仏法では、死後、信徒は「霊山浄土」に赴くと言われています。

今回は、このことを考えてみたいと思います。



私は別のところ(獅子風蓮のつぶやきブログ)で、友岡雅弥さんのことばを拾い集めています。

その中で、友岡さんは、「霊山浄土」について、独特の見解を述べられています。

友岡雅弥さんの講演:大聖人は「血脈」否定論者だった(7)(2023-09-05)


少し引用します。
霊山と言うのは霊鷲山、現実にインドに今でもある山で、釈迦が最後の8年間法を説いた、
釈迦の血と汗と涙が滲んでる、そいうふうな努力の跡です。
そんなどこにあるか分からない桃源郷と違って、本当にある山で、娑婆世界の象徴です。


「浄土」というのは、インドの原意では土地を改良するという意味で、中国や日本に伝わったのとは違うというのが友岡さんの持論です。
でも、それってインド仏教の詳しい友岡さんの意見であって、鎌倉時代の日蓮にとって、「霊山浄土」の「浄土」という言葉は、死後に赴く清らかな世界ということだったのではないでしょうか。

『人間革命』には、戸田先生がそのような意味で使っておられました。
たとえば、
●第1巻「黎明」の章
「妻と子よ、汝らは、国外の兵の銃剣に倒れるかもしれない。国外の兵に屈辱されるかもしれない。しかし、妙法の信者・戸田城聖の妻として、また子として名乗り、縁ある者として、霊鷲山会に詣でて、大聖人にお目通りせよ。必ず、厚くおもてなしを受けるであろう」

●第2巻「序曲」の章
「私も、後を追って巣鴨にまいりましたが、あなたはご老体ゆえ、どうか一日も早く世間へ帰られますようにと、朝夕、御本尊様に、お祈りいたしました。が、私の信心いまだ足らず、また仏慧の広大無辺にもやあらん、昭和二十年一月八日、判事より、あなたが霊山へおたちになったことを聞いた時の悲しさ。杖を失い、灯を失った心の寂しさ。夜ごと夜ごと、あなたを偲んでは、私は泣きぬれたのでございます」

また、古くからの学会員は、
「自分が死んだとき、霊山浄土で、大聖人にお褒めいただけるよう」
というような言い方をしていたと思います。

所詮、「霊山浄土」というのは、大聖人が、浄土宗の「西方浄土」に対抗して作り出したフィクションではないかと私は思っています。
仏法的におかしいとか論理的におかしいとかツッコミどころは満載ですが、信仰する者としては大聖人の言われるままに信じるのが、素直な信仰というものでしょう。

 

御書より。
「四条金吾殿御書」
僧の中にも父母師匠の命日をとぶらふ人は・まれなり、定めて天の日月・地の地神いかり・いきどをり給いて不孝の者とおもはせ給うらん形は人にして畜生のごとし人頭鹿とも申すべきなり、日蓮此の業障をけしはてて未来は霊山浄土にまいるべしと・おもへば種種の大難・雨のごとくふり雲のごとくに・わき候へども法華経の御故なれば苦をも苦ともおもはず、かかる日蓮が弟子檀那となり給う人人・殊に今月十二日の妙法聖霊は法華経の行者なり日蓮が檀那なりいかでか餓鬼道におち給うべきや、定めて釈迦・多宝仏・十方の諸仏の御宝前にましまさん、是こそ四条金吾殿の母よ母よと同心に頭をなで悦びほめ給うらめ、あはれ・いみじき子を我はもちたりと釈迦仏と・かたらせ給うらん

「上野尼御前御返事」
故五郎殿は、とし十六歳。心ね、みめかたち、人にすぐれて候いし上、男ののうそなわりて、万人にほめられ候いしのみならず、おやの心に随うこと、水のうつわものにしたがい、かげの身にしたがうがごとし。いえにてははしらとたのみ、道にてはつえとおもいき。はこのたからもこの子のため、つかう所従もこれがため、「我しなば、になわれてのぼへゆきなん。のちのあと、おもいおくことなし」とふかくおぼしめしたりしに、いやなくさきにたちぬれば、「いかんにや、いかんにや。ゆめかまぼろしか。さめなん、さめなん」とおもえどもさめずして、としもまたかえりぬ。いつとまつべしともおぼえず。ゆきあうべきところだにも申しおきたらば、はねなくとも天へものぼりなん、ふねなくとももろこしへもわたりなん。大地のそこにありときかば、いかでか地をもほらざるべきとおぼしめすらん。
 やすやすとあわせ給うべきこと候。釈迦仏を御使いとして、
りょうぜん浄土へまいりあわせ給え。「もし法を聞くことあらば、一りとして成仏せざることなけん」と申して、大地はささばはずるとも、日月は地に堕ち給うとも、しおはみちひぬ世はありとも、花はなつにならずとも、南無妙法蓮華経と申す女人の、おもう子にあわずということはなしととかれて候ぞ

大聖人は、息子を亡くした信徒の女性に対して、霊山浄土で再会できると慰めています。


素直に日蓮仏法を信仰しているものは、死んだ後、霊山浄土で、日蓮大聖人にお目通りでき、先に死んだ親族にも会える。そこには釈迦・多宝仏・十方の諸仏もおられる……
そう大聖人がお約束して下さったのです。

ありがたいことです。

 

また、私は「自分が死んだとき、霊山浄土で、大聖人にお叱りを受けないよう」に、今この世での行動を律していこうと思っています。

自分の信じるところを、たとえ権力者から迫害されても貫いていく。

そんな日蓮の男らしい行動が、私の信念の源です。




獅子風蓮