以前こんな記事を書きました。
友岡雅弥さんのこと」(2023-04-24)

いま、友岡さんのことを少しでも知りたいと考え、別のところ(獅子風蓮のつぶやきブログ)で、友岡さんがいろいろなところに残した言葉を拾い集めています。

さて、『物・心・生命との出会い __高山直子座談集』(第三文明社、1996)という本があります。

 


著者の高山直子さんは創価学会ドクター部に所属する精神科医で、高倉先生のブログに書かれていた大阪で定期的に開かれた「仏法研究会」のメンバーで、場所を提供していた方です。友岡さんもこの研究会に参加されていました。

この研究会の主要な参加者である高山直子さんが、友岡雅弥さんや他の人物と対談をした記録ですから、興味深いです。

内容をみていきたいと思います。

目次
■二十一世紀の宗教を考える(友岡雅弥:東洋哲学研究所研究員)

□牧口常三郎の理念と実践(宮田幸一:創価大学文学部教授)

□法則と現実について
――物理学の現在(木口勝義:近畿大学理工学総合研究所助教授)

□「自己」と「非自己」をめぐって
――分子生物学の現在(杉本喜憲:動物遺伝研究所研究部長)

□あとがきに代えて

目次中の( )内は、私(獅子風蓮)の加筆です。
 


絶対肯定、それは生きていること


高山 話はそれますが、精神科医というのは、普通、患者さんの話を聞きながら、その人の話を自分なりに一つ大きくまとめていくんです。それで次の話を深めていくという形でだんだんと対話による精神療法というのを深めていくんですが、今、話を聞かせてもらっていて、興味深かった友岡さんの一つの大きなお話は、やはりお母さんが障害児教育をやっていらっし ったということですね。
だから、世の中の悲しみとか、差別、不幸とかというものに対しての弱者からみる目というのか、お母さんはその人たちが本当に幸せになるために尽くしはってきたと思うんです。障害児学級をもついうことは大変なことです。本当に報われることが少なくて、労多くして功少なしという教育ですよね。その中でお母さんは何十年とされている。本当の意味のヒューマニズムみたいなものがないと続かないですよね。そこでは弱者たちの人権みたいなものを酌み取らねばいけない、そういう生き方。その影響が強くあったと思われること。更に、超越という言葉、神聖なものという言葉。しかしオカルトじゃないとおっしゃいましたので、永遠不変的なもの、確固たる菩薩道への模索といったらいいのかしら、菩薩道というのは、声聞縁覚を経て菩薩ですから、そういう不変化、絶対化、永遠化というものを自分の中で求めつつも、今度はそれが弱者への救済というものに向かうという、菩薩道への志向というのが結実したと思うんです。
それからもっとおもしろいなと思ったのは、一冊の本を手にして、それがインド哲学であった。大学一年で「世界の名著」を買うということ自体すごく早熟だったと思うんです。一回生ではなかなか買いませんよね。入試の日に買ったというのがすごい象徴的で、まさに自分の大学時代の一つの問題というのが何であるかということを象徴するような出来事だと思うんです。
そして、友岡さんは、教育実習という世界の中で今の奥さんと出会っているんですよね。教育実習というのは自分のものだけではなくて、自分が得たものをどのように正しく人に伝えるかという、伝えつつ学ぶ、学びつつ伝えるというような、やはり菩薩道といったらいいのかしら、そこにつながっていくような生き方だと思うんです。そういう世界の中で出会って、彼女と一緒にすごい長い期間「法華経」を学び、「立正安国論」を学び、「開目抄」を学ぶ。それでいて、あなたの問題意識は宗教の中で決して正統性を大事にするということじゃなかったわけです。「何が正統だ」とか、「相対的に比べて、だから日蓮正宗がすぐれているんだ」そういうものじゃないものその中で、あなたの中でもしも自分の最終的な菩薩道を貫いていこうとすれば「それは入信しかない」という決意を促した触媒みたいなものが一人の老婆であったということですね。
ユング心理学などでも、よく「最後の知恵ある賢人」というんですけれども、賢人から学ぶことはすごく大きいと。それは自分の生き方の中にすべてが凝縮されているような、生き方の中にすべての真理があるというような、そういう賢人との出会いによって、友岡さんが入信というジャンプをしているわけです。そしてそれは、もしかしたら自分の中の可能性、菩薩道への願望を満たすものが創価学会の中にあるとすれば、池田先生が勇退された後のこの学会の中でそれを自分なりに尽くさねばならないと、そういう経緯を今のお話からみてとれるわけですけれども、これはとてもユニークだと思います。
で、友岡さんがいわれた敬虔さというものは、多分、そのおばあちゃんの中に集約されているような気がするんですよ。敬虔さというのは、何かこう透明性といおうか、人生を生き抜いてきた何ともいえない安らかさみたいな、それでいながら強さみたいなものを体現している生き方だとおもいます。さらに創価学会の中にそれを感じた最大の一点が「開目抄」であったというのはものすごいおもしろいと思うんです。普通、大学院生などは「開目抄」というのは読まないんじゃないですか。


友岡 そうでしょうね。


高山 インド哲学をやっていても、かつ、すごいと思ったわけですか。


友岡 すごいと思いましたね。


高山 宗教者としてじゃなくて人間として偉いと思ったんですか。


友岡 人間としても偉いけれども、単に強い人間というのを超えた、先ほどおっしゃいました透明性というのがありますね。「日蓮」というのは、宗教をやっているというか研究している連中には、おそらく創価学会のイメージとダブって反響し合いながら、すごく泥臭いどろどろした、イメージが倍加しているのだと思います。みんな、「日蓮」をちょっと横からみている。僕自身も日蓮大聖人の御書を実際見るまではそんな偏見がないことはなかったんです。やはり北一輝たちに影響を与えたんじゃないかとか。血盟団とか、そのようなまがまがしい派手派手しさみたいなものがあるんじゃないかなというのがあった。でも、「開目抄」をみたら、強いけど透明で、その強さというのが、僕のいう敬虔さに裏打ちされているような感じなんです。傲慢じゃないんです。


高山 友岡さんがいう敬虔さというのは、本当にヒューマニズムの極致のものですか。


友岡 そうだと思いますね。非常に簡単にいえば、「すっきりすること」だと思うんです。すっきりすること、これはものすごく大事だと思うんですね。そのすっきりが永遠であればそれは透明になるわけですが、そのすっきりが半年間しか続かん、すっきりかもしれないけれども、方便として少なくともすっきりがしばらくは続くわけです。


高山 だから、敬虔ということをもしも体得しようとすれば、みんながすっきりしながら、喜びながら自分の人生に向かっていく、この繰り返しの中で深まってくるということですね。それはおもしろいですね。
だから、信仰者がしなければならないことは、まず、喜ばせること、自信を与えること。


友岡 楽しませることはできるけれども、喜ばせることはなかなかできないでしょう。平均的に楽しんでいる人は多いかもしれないけれども、喜んでいる人は少ないです。世間的には。


高山 話は全然違うかもしれないけれども、患者の治療ということを考えたときに、精神療法の一番大事なことは絶対肯定で聞くことなんですよ。どんなときでも、患者に対して疑問は差し挟んでも価値観においては肯定なんですよ。「あなたの生き方、また、あなたの感じ方、あなたの主張したいことはよくわかる、間違いないよ」これを繰り返してやることによって、みずからが自動運動を始めるんですよ。だから、理論闘争に持ち込んだ精神科医は患者をだめにするといわれているんですね。理論闘争は、真か邪か、真か偽か――真実であるか間違いであるかとか、正か邪かとか善か悪かになっちゃう。必ず評価を入れるわけですね。だから、患者が本当に自分で生命力を獲得していってやっていくためには、医者は常にすごい肯定の眼差しの中に患者を置かないといけないんですよね。そうすると、患者自体が非常な安心感の中で不思議に自分で問題を解決していく力を獲得していくわけですよ。
私などは特に、結婚もしていないし母親にもなっていないので、未婚の母でもなっていた方がよかったかもしれないんだけれども、そういう絶対肯定をしてやることがとても下手なんです。
友岡さんが今されようとしていること――喜ばせるということは、いろいろな問題があったとしても基本において物すごく肯定観ですよね。


__ 今、絶対肯定といわれましたけれども、では、仏法における絶対肯定というのは何でしょうかね。これは「法華経」の思想とも非常に関連すると思うんですけれども。


友岡 仏教というか法華経の特徴というのは、これでいけば成仏できる、これでいけば幸せになるという原理はある。とはいっても、現実は千差万別できびしいものだから、安楽行品のようなかたちもある。また、小さな砂の塔をつくっただけで、それだけですごい功徳があるという形ですね。
基本はあるけれども、「とはいっても」と来るんですよね。これはものすごく大切なことで、池田先生の指導などをみても痛切に思うんです。まず、原則が一つしっかりあって、「とはいっても、現実は難しいんだ」と、こういうことがフォローでつくんですよね。戸田先生もそうですね。「こうである」。「とはいっても、家に帰ればおっかあ、酒くれ」というような話が絶対ついてくるんですよ。戸田先生の指導なんかをみていても、それがあるんですよ。強い原理があって、でも、プラス「とはいっても」があるんですよ。これがあるのかないのかで全然違うものになると思うんです。


高山 その話につながるかどうかわからないけれども、私どもの患者さんの中で責任感の強い人がいて「絶対、愚痴はいってはいけない」というところで、みんなすごくしんどいんですよ。で、「とはいっても、愚痴って心のウンコだから出した方がいいよ」っていってあげると、これですごく楽になるんですよ。「でも、出し方よね。ウンコって、出すところはトイレに決まっているから、ここをトイレにして」って。診療室をトイレにする。「トイレを一人決めた方がいいよ、あっちこっちで出したらたいへんでしょ」って言うんです。
さっきの絶対肯定という話の中で、私は絶対肯定というのは生きていることそのものだと思うんです。生きていること――たとえそれが悪い生き方であろうが、いい生き方であろうが、弱かろうが何しようが、まずは生きていること自体でもう十分だと。だから、私としたら――学会員さん自体は、強い人も弱い人もいる、でも、この末法の中で信心をしよう、これだけでも尊いと。生きていること自体がものすごく尊いことなんだというか、肯定的なことですね。
すると、その次どういう問題が出てくるかというと、自分が肯定されたときに、次は必ず親にとか周りに目が行くんです。親も生きていることだけで尊いんやと。肯定が始まるんです。肯定の中で多様性が認められてくるんです。
患者は今までは親に対して恨んだり夫に対してすごく恨んだりしていた。こういう中で、肯定されると、今度は向こうも肯定しようと必ずしてくるんです。「親も仕方がなかったんだ」という、多様性というものを許すということが、絶対肯定の次に必ず引き出されてくる産物のように思うんです。その中で許しが始まると「お母さんもあの中では貧しかったから、私に対してこんなんでも仕方がなかったんだわ」って。自分が肯定されたら親を肯定していく、あらゆるものを肯定していく。その肯定の中から、今度は、どれを選ぼうかという自分の決断が始まる。こういうふうになっていって、患者は治療が終結していくんです。
だから、「法華経」は、その生き方の根本を肯定するというところにすごさがあるんだと思うの。あとは知恵でいけると思うの。だから、本当に信心が深まったらすべて多様性を認められる。
多様性の肯定というのを具体的な形でいうと、例えば創価学会の地区の中でいろいろな人がいる。「みんな仲よく」という形でしかいいようがない世界だと思うんですよ。


友岡 それをやってるうちに、それぞれががんばれるんですよね。


高山 あの人はあの人、この人はこの人で……。
その多様性を認められる前の絶対肯定というところに入るときに、例えば友岡さんのさっきの話に戻りますけれども、自分自身が本当に肯定できるためには――医者が肯定したからよくなったという問題の前に、悩みをもって病院に来続けるというこの力が要るわけですよ。自分の中で何かを変えよう、治そうと思ってあるものを選択して――この病院を選択して、ここに来続けるという患者の絶対的努力が要るわけですよ。それが入信であって、入信からもとの出発点に戻していくために学会があって、後からは物すごく個人になっていくんじゃないかなと。だから、創価学会がもしもこれから敬虔なものを獲得しようとすれば、これからの生き方にあるのかな。どうなんでしょう?
敬虔さというのは、最後一人に戻れる強さといったらいいのかしら。私たちは絶対生を肯定するけれども、いろいろな途中を経てその中で、本当に頑張った人の生き方をもう一度自分が尊敬し讃えられたとき、そういう生き方が敬虔かなと。
そういうように考えて来て、ここでまた質問したいんですが、宗教というのは最後は法への接近の修行法ですか。何なんです?


友岡 一つはそのようなものがあるかもしれませんけれども、もう一つは、僕自身の話ですけれども、僕と池田先生との関係の始まりというのは、増田さんという先ほどのおばあさんが、先生に対して強い信頼感を抱いている方でした。ところが、ちょうどそのとき先生は宗門問題でたいへんだった。それで勇退なさって、そのときに本当に「悔しい」と、涙を流しながらおっしゃった。だから、僕と池田先生との係わりというのは、増田さんの先生への視線の中に、強烈に感じたのです。
だから、次元はちがいますが、法華経の中に渇仰於仏の話が出てきますよね、つまり、今ここに不在なる仏を求めるというか、求めていくものは求めていくんやけど、それが存在しない。だから、自分で自分の心の中につくっていかざるを得ないという形ですね。法は法としてあるんだけれども、それを現実化していくには自分でやらざるを得ない。これは「法華経」にその精神とかいうものが横溢しているような気がするんです。


高山 釈迦没後もそうだったんですか。 渇仰ですか。


友岡 渇仰ですね。だから、自分たちが主体者としてやっていかなければならないと。しかし、エゴに陥らないんですね。「あいつがいなくなって、俺が次の仏だ」というような話でもないし、仏になりたいから必死になって湯仰するんだけれども、自分たちでやっていかざるを得ない。そういうようなあり方というのが、一つ大きなテーゼとしてあるんやないかというように思うんです。
人格神であれば、それに頭を下げる敬虔さが出るんですよ。自分たちの存在というのをみすぼらしく思い、自分たちの欲望というのはすごく下品なものにみえてくるという、そういうふうな役目を果たすようなね。
例えば非常に原始的な宗教がありますよね、呪術とか。それに人格神もいるかもしれないけれども、基本的には形のないものですね。宇宙に遍満する何か変なパワーであったり、それから、木に宿るマナみたいな霊的パワー、魔術的パワー、その中間項として人間のシャーマンがおるわけです。そういう道具とかシャーマンを通じてコントロール不可能なものをコントロールできるように感じる。それに対して、高等という言葉は余り使いたくないんですけれども、いわゆる高等宗教といわれているものは、人格神を立てるんです。それも歴史上の人物を。媒体というだけではなくて、人格神を体現化したようなものとして、イエス・キリストみたいなものを立てる。
不思議なことに、民俗的な宗教は、余り唯一の人格神というのを立てない。いっぱい人格神がおって、ほんまに人間のようなのもありますけれども、唯一の人格神は立てないですね。
不思議なことに高等宗教といわれる「人間の苦しみは一体どうしたらいいのか」とかいう人間の苦しみを取り除こうという宗教というのは唯一神教だといえますね。その上で仏教というのは、そこから、もう一歩上へ行って、その唯一神すら立てない。

 


解説
精神療法の一番大事なことは絶対肯定で聞くことなんですよ。どんなときでも、患者に対して疑問は差し挟んでも価値観においては肯定なんですよ。「あなたの生き方、また、あなたの感じ方、あなたの主張したいことはよくわかる、間違いないよ」これを繰り返してやることによって、みずからが自動運動を始めるんですよ。だから、理論闘争に持ち込んだ精神科医は患者をだめにするといわれているんですね。理論闘争は、真か邪か、真か偽か――真実であるか間違いであるかとか、正か邪かとか善か悪かになっちゃう。

という高山さんの言葉は、精神療法の基本中の基本です。

私どもの患者さんの中で責任感の強い人がいて「絶対、愚痴はいってはいけない」というところで、みんなすごくしんどいんですよ。で、「とはいっても、愚痴って心のウンコだから出した方がいいよ」っていってあげると、これですごく楽になるんですよ。「でも、出し方よね。ウンコって、出すところはトイレに決まっているから、ここをトイレにして」って。診療室をトイレにする。

この高山さんの例も興味深いですね。
高山さんのクリニックにはおそらく創価学会員も多く受診していることと思われますが、この患者さんも創価学会員なのでしょう。
創価学会ではよく「愚痴を言ってはいけない。愚痴は功徳を消す」という指導を会員にします。
そのため、会員は心の中の不満に蓋をして、表面上は明るく振る舞うことが多いです。
それがあるとき、限度を超えて、精神的に破綻をきたし、精神科にかかったり、自死したりするのではないでしょうか。
私は以前、こんな記事を書きました。
読むべきマンガ:菊池真理子『「神様」のいる家で育ちました』 その8(2023-03-30)
ここに描かれている母親は、創価学会の指導を真面目に守り、愚痴を言わず、夫の世話をし、唱題をし、学会活動に時間を割き、やがて精神的に不安定になり、最後には自死してしまいます。

少なくとも高山さんは、精神科医として、愚痴をこぼすことは精神の安定を保つために必要だと説明しているわけですね。
創価学会の指導によって精神的にボロボロになった会員をたくさん診てきたはずの高山さんは、創価学会の指導のおかしさを指摘するようなことはしてこなかったのでしょうか。
是非、このブログをみたら、ご意見を聞かせてください。


私は絶対肯定というのは生きていることそのものだと思うんです。生きていること――たとえそれが悪い生き方であろうが、いい生き方であろうが、弱かろうが何しようが、まずは生きていること自体でもう十分だと。
(中略)
すると、その次どういう問題が出てくるかというと、自分が肯定されたときに、次は必ず親にとか周りに目が行くんです。親も生きていることだけで尊いんやと。肯定が始まるんです。肯定の中で多様性が認められてくるんです。
患者は今までは親に対して恨んだり夫に対してすごく恨んだりしていた。こういう中で、肯定されると、今度は向こうも肯定しようと必ずしてくるんです。「親も仕方がなかったんだ」という、多様性というものを許すということが、絶対肯定の次に必ず引き出されてくる産物のように思うんです。
(中略)
だから、「法華経」は、その生き方の根本を肯定するというところにすごさがあるんだと思うの。あとは知恵でいけると思うの。だから、本当に信心が深まったらすべて多様性を認められる。


ここのところは示唆に富んでいますね。
アンチの場合で言えば、自分が不幸になったのは創価学会のせいだ。
二世の場合には、信心を無理やり持たせた親のせいだ、と責任を外部に負わせがちです。
しかし、自分を絶対肯定して生きるようになると、そんな親でさえ肯定でき、許せるようになるのです。
そのために「法華経」の思想が役に立つような気がします。


創価学会がもしもこれから敬虔なものを獲得しようとすれば、これからの生き方にあるのかな。どうなんでしょう?

高山さんのこの文章からは、高山さんも現在の創価学会には敬虔さが欠如していることを認めているわけですね。
創価学会の信仰に欠けているもの。
それは「敬虔さ」……

人格神であれば、それに頭を下げる敬虔さが出るんですよ。自分たちの存在というのをみすぼらしく思い、自分たちの欲望というのはすごく下品なものにみえてくるという、そういうふうな役目を果たすようなね。

友岡さんのこの言葉は、心にすんなりと入ります。
私は日蓮大聖人をご本仏として信仰する立場ですが、日蓮大聖人の生き方に恥じないような、男らしい生き方をしたい、と常々思っています。
日蓮大聖人を前にして頭を下げる敬虔さ、というのは日蓮仏法を信ずる者に共通してあるのではないかと思います。
日蓮本仏論は根拠がない、と批判するアンチもいますが、私は日蓮本仏論だからこそ、敬虔さが生まれ得る可能性があると思っています。


獅子風蓮