以前こんな記事を書きました。
友岡雅弥さんのこと」(2023-04-24)


いま、友岡さんのことを少しでも知りたいと考え、別のところ(獅子風蓮のつぶやきブログ)で、友岡さんがいろいろなところに残した言葉を拾い集めています。

さて『物・心・生命との出会い __高山直子座談集』(第三文明社、1996)という本があります。

 

 


著者の高山直子さんは創価学会ドクター部に所属する精神科医で、高倉先生のブログに書かれていた大阪で定期的に開かれた「仏法研究会」のメンバーで、場所を提供していた方です。
研究会の参加者は、高倉先生のブログによると、高倉先生のほかに、野崎至亮(よしゆき)氏、高山氏と高山氏の後輩の医師、婦人部の幹部、友岡雅弥氏、徳岡氏などが参加されていたそうです。
(創価学会池田カルト一派との裁判シリーズ その62)

この研究会の主要な参加者である高山直子さんが、友岡雅弥さんや他の人物と対談をした記録ですから、興味深いです。
この本は創価学会系の第三文明社による出版ですので、一般的な本と少し趣の違うところがあります。
「座談集」というなら、表紙に対談した相手の名前と肩書を入れるのが普通だと思うのですがそれがありません。
目次にも、対談者の名前や肩書の表記がありません。
また、本文を見ると、高山直子さんと対談者以外の発言者がいて、棒線( __ )のあとにその言葉が記されています。
普通の本だと、編集部の人間の発言になるのでしょうが、なぜだかこの発言者の身分が明かされていません。
それはさておき、興味深い本ですので、内容をみていきたいと思います。

目次
■二十一世紀の宗教を考える(友岡雅弥:東洋哲学研究所研究員)

□牧口常三郎の理念と実践(宮田幸一:創価大学文学部教授)

□法則と現実について
――物理学の現在(木口勝義:近畿大学理工学総合研究所助教授)

□「自己」と「非自己」をめぐって
――分子生物学の現在(杉本喜憲:動物遺伝研究所研究部長)

□あとがきに代えて

目次中、( )内は、私(獅子風蓮)の加筆です。
 


敬虔さを求めて

__ 友岡さんは、大学院で種々の宗教を比較した経験を持っておられて、その上で創価学会を「自分の宗教」として選ばれました。一般的な宗教と比較して、創価学会のいい意味での特徴をお聞きしたいのですが。

友岡 基本的にいったら、学会は「強い」ですね。それは一人一人が「強い」ということでもあるし、組織としても運動としても強い。この強さというのは日本においては何百年かぶりに宗教が獲得した強さかもしれない。しかもこんなたくさんの人がです。信仰をやればやるほど弱くなっていく、自己が磨かれない――そういうふうな思想・宗教が多い日本で、この強さというのはすごいですよ。また、私が創価学会に興味をもったのは、霊という言葉が考え方のシステムの中に出てこない。霊魂崇拝みたいなものがね。霊障だとか、浄霊だとか、そんな考えを払拭してますよね。これがやっぱりほかの宗教との大きな違いですね。有名な精神分析学の野田正彰さんは、日本のたいていの宗教について、悩みを自分の問題として克服することを忘れさせ、すべて霊的な祟りや、霊的パワーの障りとする宗教と指摘している。その上で創価学会は、「ロゴスの宗教」つまり、言葉で励まし、言葉で自分の生きる意味を語る宗教と位置づけられています。

高山 今、日本における普通の宗教の姿の話が出ましたが、21世紀を展望した時、生き残っていく宗教の条件というのは何だと思われますか。

友岡 21世紀を展望した時、宗教として永続的に残るためには、敬虔さというのがものすごく大事な気がします。イスラムがあれだけずうっと残っているのは、巷間言われているように戦闘的な故じゃない、それは一人になってもメッカの方へ向いて祈りを捧げるというような敬虔さじゃないでしょうか。
日本で仏教が霊魂崇拝に転じたり、葬式などという形式、単なる習俗に落ちていったのは、思想に対する深化というか、深まりというか、理解というか、それを怠ったためじゃないかなと思うんですね。例えば、よくいわれる話なんですけど、キリスト教は聖なるものを外にみると。ほかの普通の宗教も同じでしょう。しかし仏教は内にみると。たしかにそうだけど日本ではそこで仏教理解が、とまってしまった。

高山 この議論というのは鎌倉時代にもありましたね。

友岡 そうです。見性成仏といって、仏性が自分の中にあって、自分の心の中の仏性をみればいいのだという考え方ですね。当時の日本の国に台頭していた武士階級には、器量、器というか、実力重視というか、自己反省のない風潮があって、自分の中に最極の存在があるという禅的考え方は、その風潮にのっとって武士階級にダーッと広まっていくわけですね。
「我々の中に仏界がある」だけでは本来の仏教じゃないんです。本来、仏教というのはそうじゃない。山口瑞鳳博士が注目すべき論文を書いてましてね。3年ぐらい前の『思想』に。それをみて、おおっと思ったんですよ。我が意を得たりってね。そもそも仏教ってどういうものだったか。それは自己の悟りなんてないんですよ、といって順番に説いていくという、そういう教えなんだと山口博士は諸文献を基に証明している。自己の悟りなんてないですよといって、自己の悟りにとらわれた人々を解放していく、教えなんだとね。自己の悟りということに閉じてしまうと、エゴになりかねない。

__ 禅宗的な傾向というか。

友岡 そうです。別の仏教学者が言っています。もし禅が何も考えないという悟りを目指すなら、禅は仏教でないとね。無念無想が最高の境地なら寝ておればよい。悩める他者が眼にはいったら、平静でいられるはずがない。法華経の不軽菩薩品に出てくるように、不軽菩薩は他人の仏性に礼拝した。自分に仏性があるというのは置いておいて、まず他人の仏性を礼拝したという、これが一つのポイントではないかなと思うんです。自分の外に神を立てるのでもなく、自分の内に神を立てるのでもなく、他者の内に神聖なるものを見る、他者に対して敬虔であるという観点は今後の宗教のあり方を考える上で、必要かなと思っているんです。

高山 今個人と国家とか、社会とかが、他者と向き合っていくという時代に入ってきたと思うんですよ。他者性に自分の中でどのように向き合っていくかというね。
ユングの心理学になってしまうんだけど、ユングやエリクソンは、人間というのは一生を通して完結するものだという考え方をもってますよね。一生を大きく幼年期、青年期そして成人期、老年期というふうな分け方をして、その中で大切なポイントを示唆しています。「幼年期」というのは絶対的な「安心感」というものをいかに母子関係の中で確立できるかどうか、いってみれば生きる根本的な、よって立つ「安定」という問題。そして二つ目の「青年期」になると、自分をいかにアイデンティファイしていくか。相矛盾する自分をいかに統合してゆくかが、大切になってくるわけ。ある価値観の違いをいかに統合するかというわけで、青年期になったときの一番の問題は、その価値観を統合した自分をいかに本当の自分に近づけていくかという「修業の時代」になるわけです。そして「成人期」、この時期は秋の収穫期にも似て、後の世に残るものへの努力の時で、この時に大切なことは、他者との交流の中に、役立つという手ごたえをつかんでいくことといわれています。そして最後に「老人期」、死を迎えるに当たって一番大事なことは、いかに自分の人生を絶対肯定するかということです。この問題を克服し得た人が人生を生きたといえるという言い方をユングはしているわけですよね。

友岡 それで、幼児期には母子関係が非常に大切になるんですね。

高山 そう、母子でなくても、母子にかわる存在というものの安定性、そういう人間関係の一番基本となる、それをラブと呼んでも構わないと思うんだけれども、やっぱり愛の認知という問題が出てくると思うんですよね。それから青年期は、アイデンティファイするときに、異なった化学式の分子が一瞬のうちに触媒の働きによって一つのものになり遂げていくには何が必要かとなると、「神聖なものに触れる」ことといわれているんです。神聖なものに触れること、これが青年期に欠如した人は、触媒になるものがなくて自分というものはできないって、こういうふうにいわれている。

友岡 それで「修業の時代」というわけだ。

高山 そうそう。そして、成人期の確立したと思った自分を拡大していくためにはやっぱり奉仕性、他者への奉仕性の中に継承性とか、いろんなものがすべて含まれてくるけれども、奉仕性ということを非常にいっているわけです。
そして老人期の場合には「希望」といってます。ユングの哲学では。老人期には希望と絶望しかないと。肯定できなかった人は絶望なのだ。希望をもった人のみ、あたかもそれは今まで来しかたをすべて受容して、自然のふところの中に抱かれるように、それはまさに赤子に返ることである。このように一番至福な母子関係へ戻れた人のみ、つまり人生が円になることが一番幸せなことであるといっています。そういうふうにみたときに、私は、創価ルネサンス運動の本質は母子関係から分離した段階であると考えられると思うのです。だから、その意味で、変な神がかり的・神秘的じゃない神聖なものとの関係に、創価学会は大きく前進しつつあると思うわけ。そこで、「神聖なもの」というのは一体何になるのかが、大切になるんですよ。

__ それがさっきの敬虔とつながるところですね。

友岡 さっき言ったように、僕は不軽の行動にその範があると思う。今の言葉では人権とか、人間の尊厳とか人格的高まりとかいうものが、それにあたると思うんです。そしてまさに、SGI運動はその方向に展開している。

高山 今、敬虔ということをいわれてはっと思ったんだけど、現代社会に生きている人たちが今非常に飢えているのは、特に形式上の宗教とかじゃなくても、何か神聖なものというか、何かソウルを揺るがすものなのね。きっと真の宗教の中にはあるはずだと思うの。それでなかったら宗教は滅亡しているはずです。老人期にもう少しすると入っていく年齢となっているのに、私は神聖なものを後輩に与えているだろうかということを考えずにはいられません。フロイトの理論は一人前のエゴ、アイデンティティを獲得するまでの理論ですよ。信仰というのはそこからもう一歩出たところにあるはずだから、それは一体何なのかなと。そういう問題意識をもってきょうは来たんですよ。

__ 今の話を聞いていて、最近、またサイババみたいのが出てきたりしているけれどもあれはどうなのかと思いますけれどね。

高山 『理性のゆらぎ』の? 読みました。

__ あの本がよく売れたことからも分かるように世間も何か「神聖なもの」求め出していると思うので、今、神聖というもの、敬虔というものは、何から生み出されるのかという問題をきちんと考える時にきていると思います。今までの仏教も、哲学的な形になった場合、そこで既に神聖さを失っているわけです。それから言語表現を通じてプロパガンダでどんどんやっていけばいい世界ですから、もう既にそういうものは敬虔さがないわけです。つまり敬虔なものに触れた瞬間というのは人間は単に言葉を失うと思うんですよ。だから表現できないものを保持するために本当は、宗教があったわけですけれど、宗教自体が一つの言語化をし、表現化し、そしてそれが言葉のいろいろな体制の中に埋没してしまう。そうすると、一たん言葉にまみれちゃったものを裸にしてしまい、何らかの形で出してくれるものが今あるのかどうかということ。やっぱりサイババみたいな、金粉か何か知らないけど、奇跡をやる人間になったりするわけでしょう。それをまた東大の物理学出た青山圭秀みたいな人が追従しちゃう。果たして現代の敬虔、現代の神聖というのはどういう形で生まれてくるのか。それは過去への回帰によって生まれてくるのか。例えばサイババにしても、むかしむかしのインド哲学の中に乗っかっているわけです。要するに、数論(サーンキャ)派なのですね。

友岡 サーンキャ的ヴェーダーンタ哲学かも知れませんがね。

__ ええ。

友岡 それを一生懸命、現代物理学で証明しようとしているでしょう。完全に過去への回帰ですよ。それと違ったあり方が、果たして21世紀に向かって人間がよりかかるべきものとしてあらわれるかどうかという、そういう問いを僕ははらんでいると思うんです。果たして現時点において何が神聖なるものになるのかを考えると、それは意外と身近なことかもしれませんね。それほど神秘的なとか、大それたことじゃなくて、意外と身近なちょっとした触れ合いだとか、だれかに出会ってすっきりしたとか、眼差しがうれしかったとか、そういう次元の意外と身近なところにあって、これまでの哲学とか体系の中で遠くに追いやられていたものが、大切になってくるかも知れません。ただし、一言いいたいのはそれは単なる“優しさ”とか、“触れ合い”などといった現代日本的なものではなく、「ちょっとした人間関係に、どれほどの“深さ”がこもっているか」が大事だと思うんです。
 


解説】】
21世紀を展望した時、宗教として永続的に残るためには、敬虔さというのがものすごく大事な気がします。イスラムがあれだけずうっと残っているのは、巷間言われているように戦闘的な故じゃない、それは一人になってもメッカの方へ向いて祈りを捧げるというような敬虔さじゃないでしょうか。

という友岡さんの言葉は素直に心に入ります。
でも、創価学会の信心は「敬虔さ」とは程遠いのではないでしょうか。
「敬虔なキリスト教徒」、「敬虔なイスラム教徒」という言葉はありますが、「敬虔な創価学会員」というのは、聞いたことがありません。
それをいうなら「信心強情な創価学会員」ですね。
私は、創価学会にいたときからそのことを不思議に思い、恥ずかしく思ってきました。
もっと、信仰者として「敬虔さ」を求めていきたいとも思っていました。

創価学会員や日蓮正宗の信徒が、信仰者として「敬虔さ」をどうやって自分のものにしていけるのか、議論の行方を見守りたいと思います。

法華経の不軽菩薩品に出てくるように、不軽菩薩は他人の仏性に礼拝した。自分に仏性があるというのは置いておいて、まず他人の仏性を礼拝したという、これが一つのポイントではないかなと思うんです。自分の外に神を立てるのでもなく、自分の内に神を立てるのでもなく、他者の内に神聖なるものを見る、他者に対して敬虔であるという観点は今後の宗教のあり方を考える上で、必要かなと思っているんです。

友岡さんのこの指摘も、同感です。

不軽菩薩の行動は、私たち仏教徒の行動のモデルになることでしょう。


獅子風蓮