私は、別のところ(獅子風蓮のつぶやきブログ)で対話ブログの読み返しの作業をしています。
今ちょうど、ステージⅢが再開したところです。

対話ブログ・ステージⅢ:いよいよ再開です(1)2022-05-20

この中でシニフィエさんの「第3シーズンのスタートです。」という記事に「田部潤」という人が、次のようなコメントを寄せました。

●田部潤 (2016年11月19日 01:27 )
ブログ復活おめでとうございます。またありがとうございます。
いつも気になっていたブログでして、こうして書き込みできるのは望外の僥倖であります。
初めての者ですが、田部潤というHNで投稿します。よろしくお願いします。
元々は創価学会のバリバリの活動家でした。亡き父は昭和40年代、池田氏に近い最高幹部の一人でした。
今はすっかり非活メンバーで、創価学会に再生される見込みはもうないと考えています。
個人的に日蓮教学を考えて、ブログも書き出してみました。数人の仲間と協力して書いています。
http://watabeshinjun.hatenablog.com/
今は個人的に日蓮の信仰者として、自分の考える日蓮信仰は何なのか、求め続けながら歩いて行きたいと考えています。


コメント内のURLをたどると、気楽非活さんのブログ「楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆」が開きます。
このブログは、アンチの中では超有名なブログで、私も一通り目を通しています。

田部潤さんの「元々は創価学会のバリバリの活動家でした。亡き父は昭和40年代、池田氏に近い最高幹部の一人でした」というプロフィールは、気楽非活さんのプロフィールと重なりますし、なによりも自分のブログのURLを書きこんでいて、それが気楽非活さんのブログに飛んでいくのですから、田部潤さんと気楽非活さんは同一人物だと考えるのが自然だと思います。

それで、「解説」に次のように書きました。

有名なブログ「楽に語ろう☆ 創価学会非活のブログ☆」の気楽非活さんが、田部潤というHNで投稿していますね。貴重なコメントです。

私のこの記事に、なんと気楽非活さんからクレームが来ました。

Unknown (気楽非活)
2022-05-20 17:37:26
虚偽情報を流さないでください。
「田部潤」は私ではありません。
未確認の情報を勝手に真実であるように語るのはやめてください。獅子風蓮さんはきちんと私に謝罪をしてください。


私としては、文章の流れからいうと、「田部潤」は気楽非活さんに違いないと思ったからそのように書いたのですが、本人から違うと言われて、面食らってしまいました。
でも、いきなり「虚偽情報」「未確認の情報を勝手に真実であるように語るのはやめてください」と強い言葉で抗議を受けるほどのことをしたでしょうか。
事実関係もはっきりしないうちから、謝罪要求を突き付けられても、困ってしまいます。
そもそも、「田部潤」は気楽非活さんではないというなら、「田部潤」は気楽非活さんになりすましたということですか。
当時の対話ブログはなりすましに関しては皆さん過敏になっていましたが、そのなりすましに対して、気楽非活さんあるいは気楽非活さんの知り合いの方は抗議の声を上げましたか。
私が記憶している限りでは、そのようなことはなかったと思います。
当時のやり取りをリアルで知っている方がおられましたら、情報提供していただけたらと思います。

以前、対話ブログにレモンさんというかたがコメントしていて、私の知っているレモンさんとプロフィールが違っていたので、別人かなと思いながら記事に書いたのですが、その後、私の知っているレモンさんから連絡をいただき、別人だと判明しました。
この時は、該当コメントを削除の上、レモンさん本人に謝罪し、お許しを得ております。

今後、「田部潤」と気楽非活さんが別人と判明したあかつきには、該当部分を訂正し、ちゃんと謝罪しようと思います。
「田部潤」のなりすまし疑惑解明に、気楽非活さんも是非ご協力ください。


そもそも、「田部潤」が気楽非活さんになりすますメリットは何なのでしょうか。

わたしには何が何だか、よくわかりません。

それはそれとしておいておき、気楽非活さんからコメントをいただいたことは、私にとってはうれしいことです。

以前、私は気楽非活さんのことを記事にしたことがあります。

「気楽非活さんについて」(2021-06-23)

少し引用します。

ここしばらく、気楽非活さんのブログを集中的に読んでいます。
結論からいうと、私は気楽非活さんの主張にほぼすべて賛成です。
意外ですか?
(中略)
違うのは、最終的に選択した信仰でした。
気楽非活さんは、創価学会にも他の大石寺系の教団にもあいそがつきて、日蓮仏法さえ信じられなくなり、今は念仏に心を寄せているとのこと。
私の場合は、学問的に日蓮仏法が破綻していることは認めるものの、信仰としての日蓮仏法は、それによって救われる人が一人でもいる以上、存在意義があると考えています。
私は対話ブログで、たらこ唇の天使さんから
「ご本尊を心の底から信じているか」と問われて、森鴎外の『かのように』や、ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」の概念を使って、自分の考え方を述べました。
ブログの管理人からは、そんな哲学的な小難しいことを言って問題をはぐらかせているという見当違いの批判を受けましたが、信仰とは理屈ではないこと、信仰のための教学は、必ずしも厳密な学問的整合性がなくてもいいことを、なんとか分かってほしくてこれらの考え方を利用しただけなのです。
いつかまた、機会があれば、これらの議論をもう少しつっこんでしてみたいと思っています。
最終的に選んだ道は違いますが、私は気楽非活さんのことを尊敬しています。
気楽非活さんのブログからは、たくさんのことを教わりました。
気楽非活さんのお母さんを思う気持ちには、胸が熱くなります。


この記事のコメント欄にも次のように書いたのですが、気楽非活さんは読んでいただけたのでしょうか。

気楽非活さんとも話をしてみたいのですが、あちらのブログでのコメントの仕方が分かりません。
もしこの記事を読まれていたら、気楽非活さん、ご連絡ください。


今回の、切れまくりのクレームでだいぶ印象は悪くなりましたが、今でも気楽非活さんと対話をしたい気持ちは変わりません。

よろしかったら、この記事のコメント欄でお話しませんか。

まずは、「獅子風蓮のつぶやきブログ」に書いた私の主張について感想を聞かせてください。

●レヴィ=ストロース「構造主義」の考え方を使って、鎌倉時代の日蓮の教えの本質を現代に生かすやり方。
●森鴎外の『かのように』やヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」という考え方で、それぞれの教団内部で信仰を保つことはできるのではないかということ。

獅子風蓮