ここしばらく、気楽非活さんのブログを集中的に読んでいます。
結論からいうと、私は気楽非活さんの主張にほぼすべて賛成です。
意外ですか?

昨日の記事に書いた一文も、気楽非活さんのブログでよくお見かけする主張です。

創価学会や大石寺系の教団の欠点としてよく指摘されるのが、
「明らかな間違いを指摘されても、非を認めない、謝らない」
というもの。
私も含めて、そういう欠点は克服していきたいものです。


違うのは、最終的に選択した信仰でした。
気楽非活さんは、創価学会にも他の大石寺系の教団にもあいそがつきて、日蓮仏法さえ信じられなくなり、今は念仏に心を寄せているとのこと。
私の場合は、学問的に日蓮仏法が破綻していることは認めるものの、信仰としての日蓮仏法は、それによって救われる人が一人でもいる以上、存在意義があると考えています。
私は対話ブログで、たらこ唇の天使さんから
「ご本尊を心の底から信じているか」と問われて、森鴎外の『かのように』や、ヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」の概念を使って、自分の考え方を述べました。
ブログの管理人からは、そんな哲学的な小難しいことを言って問題をはぐらかせているという見当違いの批判を受けましたが、信仰とは理屈ではないこと、信仰のための教学は、必ずしも厳密な学問的整合性がなくてもいいことを、なんとか分かってほしくてこれらの考え方を利用しただけなのです。
いつかまた、機会があれば、これらの議論をもう少しつっこんでしてみたいと思っています。

最終的に選んだ道は違いますが、私は気楽非活さんのことを尊敬しています。
気楽非活さんのブログからは、たくさんのことを教わりました。
気楽非活さんのお母さんを思う気持ちには、胸が熱くなります。

PS:
別のところ(獅子風蓮のつぶやきブログ)で当時の対話を再現していますので、興味のある方は、お立ち寄りください。

獅子風蓮でした。