証拠はないと言うけれど、その当時、普通だった事をわざわざ記す必要は無いと思うけど。日記などの場合は、特記すべき尖った出来事を記し、書状は受け取る相手とのやり取りがメインなんだから。400年後の人間にとって男色関係が普通じゃなくなる事まで予見して記しちゃあくれない。
蘭丸が美少年だったとか男色とかの記述が史料に全くないと勘違いしてる人もいるようだけど、あくまでも当時の日記や書状に特に書かれてないだけで江戸前期から中期の史料に集中して美少年だの男色相手だったというのは普通に書かれている。
少年の愛人なんて普通。
そもそも男色関係を表す直接的表現って何?私のブログでも取り上げた御座を直す を直接的表現というのは大きな間違いで、相当回りくどい言い方。良く使われる「君達付き合ってるの?」という表現とか。恋人同士?ってわざわざ聞かなくても、付き合ってるの?で通じる訳で。でも、400年後の人に言っても意味分かんないってなると思う。付き合ってるという言葉は仲間同士を指す時に使われるから、あくまでも友達として付き合ってるのであって恋愛感情は無いと400年後の人間が解釈したら、現代人からすれば結構笑えると思う。
蘭丸の場合は江戸時代の史料にはストレートに書いてるのがある。
寵童也 とか比類無き美少年とか片時も側を離さず御奉公とか 他に人無きが如くご寵愛とか 蘭丸は儂の宝だとか言う逸話 他にも多々
例えば以下のような史料に記載
()の中はどのようなイメージで語られてるか 蘭丸の事を記した史料は人物像が深く掘り下げられてはいないけど(短命過ぎるから、男色嫌いの人がウンザリするぐらい美少年と書かれ捲っているwwこれだけあるのを全部が一つの枝から広がった創作とするのは苦しい。明らかに前期の段階から著者の系統が違い、森家だけが認めている訳ではない。当時の日記や書状にはないから、蘭丸という名前だけで男色のイメージになった~なんて奇妙な説で誤魔化しきれない程沢山ある。
安土桃山時代?
武将感状記(男色)
著者は熊沢淡庵1629年~1691年江戸前期の儒者と伝わるが、実は信長に仕えた池田家備前岡山藩士の吉田源之丞の家(弓術で有名らしい)に伝わるものを熊沢が整理してまとめたものとされるので、刊行は江戸でも内容は安土桃山時代に書かれたものという可能性がある
江戸時代前期
武家閑談(美少年、寵愛、男色、利口)
木村咄(美少年、利口、寵愛、人柄)
明智軍記(美少年、男色)
江戸時代中期
遠山来由記(美少年、寵愛、男色、利口)
兼山記(利口、男色を思わせる激しい寵愛、人柄)
常山記談(利口、寵愛)
鳩巣小説(ファッション(^^;)
絵本太閤記(美少年、利口、寵愛《男色含みあり》)
江戸時代後期
森家先代実録「武家聞伝記(江戸時代前期)が元になってるので内容としては江戸時代前期」(美少年、利口、良い人柄、寵愛)
幕末から明治
名将言行録《有名な蘭丸の逸話が大体全部網羅されてる(蜜柑、爪、不動行光刻みとか)》(美少年、利口、ショタ男色含みある逸話いくつか)名将言行録は成立時期こそ新しいが江戸時代前期の武家閑談等からの抜粋逸話が入っている
上記の史料以外でも美少年だの信長の寵愛だの書かれたのは、他に20ぐらいはあるかも。いや、もっとあるかも(勿論、前に書かれた史料を継いでて内容重なってるかもだけど)
信憑性は低いけど、信長と光秀が蘭丸を取り合ったから本能寺の変が起きたという話し←出典は忘れたが、そこまでマニアックな史料ではない。顛末としては本能寺で殺されず明智軍に生け捕られた蘭丸が、俺の物になれと、光秀に口説かれ拒否するという話し←結局死んでしまう 若くして非業の死を遂げた人間にありがちな、実は生きていて子孫がいたという話しぐらい胡散臭いが、信長と蘭丸の男色をはっきり肯定している逸話
蘭丸が男寵を嵩にきて光秀を苛めたからとかいう話しも残っている←明智軍記
↑
これ、現代人が勝手に作った妄想では無く、少なくとも江戸時代前期に書かれたものでっせ。
御座を直すが、現代で夜のお相手をしたという意味なら、寵童、片時も離さずとかの表現は、恋人同士で二人は付き合っているという言い回しになるかと思う。
蘭丸の人物像は時代によって、人の都合によって何を強調して書くかという違いはあると思う。
例えば明智軍記は男寵を強調し、信長をたぶらかした美少年という風に書かれており、明治時代には軍国主義の影響か、主君に殉じた忠臣という点を強調される。
そして昭和以降は同性愛=悪という考え方からか、信長との男色関係は無かった、美少年でさえ無かったという説が唐突に生じる。
ブログタイトルに添った意見を言わせてもらえば、男色関係が無かったとする説には相当無理がある。
あった事を示唆する史料の多さや信長の愛を示す記録や物的証拠に比べて、無かったと思わせる根拠や史料が全くないに等しい。
年齢が実は高かったのでは?という説は殆ど妄想で、蘭丸の年齢は、明智軍記以外では、18歳で統一されている。(明智軍記の場合は性的な意図で二十二才になっている ②森蘭丸を盛る森家(明智軍記で恐れていた事態に)
で、美少年にとっての元服の意味を理解して貰えれば 分かるかなあ)例えば源義経みたいに実は出っ歯のチビだったという逸話があれば検証材料にはなる(但し彼でさえ美形である事を裏付ける根拠の方が多いと思う。)
で、美少年にとっての元服の意味を理解して貰えれば 分かるかなあ)例えば源義経みたいに実は出っ歯のチビだったという逸話があれば検証材料にはなる(但し彼でさえ美形である事を裏付ける根拠の方が多いと思う。)
私のブログ③麒麟がくるでは髭もじゃの蘭丸登場?本能寺の変は変だは変だ
で取り上げた八切止夫の悪意があるのではと思われる程の蘭丸の年齢詐称はお粗末過ぎる。なので、男色関係は無かったという説は、殆ど史料に典拠していない独自の説に過ぎず、男色関係が無かったと思いたい人間の願望に見える。
で取り上げた八切止夫の悪意があるのではと思われる程の蘭丸の年齢詐称はお粗末過ぎる。なので、男色関係は無かったという説は、殆ど史料に典拠していない独自の説に過ぎず、男色関係が無かったと思いたい人間の願望に見える。
当時書かれた日記や書状に無かったというが、全ての男色関係が記述されてたら男色大百科辞典が出来てしまうwwそれに日記や書状に書く必要性が先ず無いし そうした物が残ってるカップルは偶々残ってしまっただけで殆どの男色カップルは二次史料が普通。信長一番のお気に入りの小姓(死ぬまで小姓だった)であった事は史実。日本史では長く少年愛が蔓延していた為、男色の対象となるのは殆ど少年で侍童(つまり小姓)ばかり 仮に容姿よりも能力の高さに惹かれたとしても、手を付ける事に何の躊躇もない事に変わりはない。
現代の上司と部下のようなドライで対等な関係を近世の武家社会に当てはめるのは無理。基本武家社会は男色的忠誠心がベースにある。性的対象でない家臣でも、セクハラパワハラという言葉が無いので、主を怒らせれば文字通りクビになる訳で、現代とは上司と部下の距離感が全然違う。根本的に社会の構造自体が現代とは異なっているという事。
蘭丸の特殊な立場は寧ろ一次史料(公家の日記や書状も含め)から察せられ、その物凄い違和感は江戸時代の記述によって納得させられ補填されるものでしかない。要はその寵愛の種類が男色によるものか能力によるものかという事になるけど、そのどちらでもないと、これ程の寵愛は無理だと思う。③織田家の男達の男色事情(蘭丸への依怙贔屓)
で書いたようにね
で書いたようにね
蘭丸の場合は史実と二次史料の間に筋が通っていて、矛盾や疑問を感じさせる要素がない。(実は不細工だった、小姓ではなく信長とは物理的距離がある為寵愛は不可能とか 実は老人だった、物凄い武功を立てていたとか(男寵を打ち消す程の))
根拠のない男色否定説が乱立(八切止夫、ブログで散々ディスり捲った「戦国武将と男色ー知られざる武家衆道の盛衰史」の作者とか、明智憲三郎氏←信長を男色として貶めるっていう同性愛者に対する差別発言書いてるけど大丈夫なんですかね)するのは、やはり同性愛=悪という思想に相当影響されているからだろう。
当時の史料(一次史料)を見ただけでも妻を持つのと同じくらい美少年の愛人がいる事が如何に武将達にとって当たり前の事だったか分かるだろう。(信長公記にも男色記述は結構ある)
本当に無かったなら無かったでも良いけど、否定する説に男色嫌悪と無かった事にしたいという願望が透けて見える事、後は蘭丸側には一次史料による証拠を求めるのに、上げられる否定材料こそ俗説か妄想では?と思われる程根拠が乏し過ぎる。
私なりに頭を捻ってみても定説通りの蘭丸がホントという着地点しか見出だせないのは恐らく江戸時代の人間も現代人も同じだと思うけど。
全く時代背景も考慮せず、史料も無視。
否定する為に勝手に作り出した否定材料でしかなく、自分達の説を証明したいが為に書かれている記述も無視という論理的でない点に私は逆に不信感を抱いてしまう。
いつの時代も自分達の思想と都合で歴史をねじ曲げようとする人間がいるという事。
に続く
蘭丸が良く分かる歴史小説はコチラ
森蘭丸伝 花落つる流れの末をせきとめて
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つづく