こんにちは。
終戦から68年が過ぎましたね。
戦後生まれ1億人を超え、総人口の8割近くに達しています。
去年、歴史の授業において、小学生たちに話を聞くと、
「えっ!、日本はアメリカと一緒に戦ったんじゃないんですか?」
という質問が出てくる時代になりました。
忘れてはいけないのは、
「神風特攻隊」
と言われる航空機の特別攻撃隊。
片道の燃料しか入れず、爆弾を積んだまま、
敵戦艦(空母)に体当たりをして・・・死と引き換えに・・・。
ここで知っておいて欲しいのは、特攻隊の隊員は、
18歳から20代前半の若者たちで構成されていたこと。
そして特攻隊へは志願で入隊するのではなく、
命令で入隊させられたことです。
パイロットを志願して、
そのまま特攻隊に入隊させられた隊員も少なくありません。
時代とはいえ・・・何とも・・・何とも言えません。
みんな、本当は、誰も死にたくなかったそうです。
結婚が決まっていた隊員も何人もいたそうです。
しかし、この隊員たちは、誰一人文句を言わず特攻していきました。
隊員たちは、口を揃えて次のように述べて言ってたそうです。
「金も名誉ももらえない。
けど、自分の命で、
祖国(日本)と家族や恋人が助かるなら惜しくない」
自分が20歳のとき、同じ状況になっていたとしても、
こんな台詞は言えないです・・・。
ここで一人の人物を紹介します。
藤井一中尉(29歳)・・・少年飛行兵に精神訓育を教えていた。
所謂、軍人精神を教える先生です。
自分の教え子たちが、次々と特攻隊に入り、命を落としていく。
藤井中尉は特攻作戦が実施される前から、
「事あらば敵陣に、あるいは敵艦に自爆せよ、
中隊長もかならず行く!
お前たちだけを死なせはしない!」
と繰り返し言っていました。
しかし、彼がいくら特攻を志願しても、
若者たちの先生であって、パイロットでもなく、
1歳と3歳の娘と妻をもつ彼に、
特攻隊になる許可がおりることはなかった。
しかし、悲劇が起こります・・・。
何度も彼を説得してきた妻だが、
最後は彼の意思を尊重する決断をします。
そうです・・・彼が特攻隊に入れないのは家族があるから・・・。
妻は幼い2人の娘たちを抱えて荒川に入水自殺をしました。
翌日の昭和19年12月15日朝、
晴れ着を着せた次女千恵子ちゃん(1歳)をおんぶし、
長女一子ちゃん(3歳)の手と自分の手をひもで結んだ
3人の痛ましい遺体が発見された。
その遺書には
「私たちがいたのでは後顧の憂いになり、
思う存分の活躍ができないでしょうから、
一足お先に逝って待っています」
という意味のことが書かれていた。
凍てつくような12月の荒川べり、
変わり果てた愛する妻と子供たちの姿を見て、
藤井中尉はその前にうずくまり、
やさしく砂を払い、そして呻くように泣いていた。
藤井中尉はこの事件の直後、3度目の特攻志願を行った。
今度は自らの小指を切り、血書嘆願であった。
今度ばかりは軍も諸般の事情から志願を受理した。
藤井中尉を特攻隊員として異例の任命を行ったのである。
藤井中尉は熊谷飛行学校で生徒達に大変人気があった。
教えは厳しいが熱血漢で情に厚いということで、
生徒達は藤井中尉を信頼し、尊敬し、あこがれを持っていた。
藤井中尉の送別会では、
学校の幹部や生徒達で集めたお金で軍刀を贈った。
藤井中尉は大変喜んでいた。
しかし、事件のこと(家族が自殺)は公になっておらず、
誰も口にするものはいなかった。
また藤井自身も誰にも家族が亡くなったことを言わなかった。
ただ、皆、噂ですでに知っており、
別れを惜しんで流す涙がさらにつらいものであったことは間違いない。
藤井中尉は、先程、書いたとおりパイロットではないので、
飛行機の操縦ができません。
彼は自分の教え子が操縦する2人乗りの戦闘機の後部座席に乗り、
教え子達、そして家族との約束をやっと果たすことが出来たのである。
涙が止まりません・・・。
藤井中尉を美化したいわけでもありません。
特攻隊の存在を肯定も否定もできません。
しかし、知っていてほしい。
映画やドラマではなく、現実で起こったことなのです。
こういう人たちが何人もいたということを・・・。
特攻へ向かう隊員たちは最後に遺書を書いて旅立ちます。
妻子に先立たれた藤井中尉は、
それでも妻と娘たちに遺書を書いて特攻していきました。
私たちが言えることは一つです。
戦争は二度と起こしてはならない!
ということです。

現在も世界各地で紛争は起こっています。
その数は39ヶ国にも及びます。
去年だけで約11万人の人が紛争で命を落としています。
今日だけは平和を祈りたいと思います。
世界が平和になりますように。
読んでいない人は読んで欲しい本です。
Shinaya