ちょっと遅くなったけれど、『死とは何か』



死って何か分かりますか。


医学的に言えば、『生命活動が不可逆的に止まること』

簡単にいえば、もう絶対に生命活動が再開しませんよ、と言うこと。(可逆的であり、生命活動が再開した場合の途中の状態は仮死状態と呼ばれる)

(他にも瞳孔拡散やらなんやら有るそうですが、長くなるので割愛)

また、辞書的にいえば『死ぬこと。生物の生命活動が終止すること』

(死とは何かの説明なのに、一言目が死ぬこと、っていうのはいかがなものだろうか)

でも、果たしてこれらは本当に正しいのだろうか。



例えば、医学が全く進歩していなかった時代であっても、これを以て『死』としていたのだろうか。

或いは、医学がもっと進歩した世の中でもこれを以て『死』とし続けるのか。

『死』の定義は永久不変なのか。


もし、『死』の定義が変わるとするのなら、『死の本質はそこにない』と言うことではないでしょうか。



そもそも、『死』を科学的ないしは医学的(或いは道徳的であるかもしれない)に考えようとして、考えられ得るものなのだろうか。

いや、もっと言えば、『死の存在を証明できるのか』


『死』って何色ですか?

『死』ってどんな形ですか?

『死』ってどんな味ですか?

いろいろ聞いたってほとんどの人は応えられないはずです。だって見たことも、食べたこともないのですから


じゃあ、何で『死がある』って分かるのだろう。


人の生命活動が終われば『死』がある?

確かにそこに『死体』はある。でも、だからと言って、そこに『死がある』とは言えないはずです。

何故かって、それはとても簡単。『死が見えないから』


何で、見えもしない、どんなものかも分からない、有るのかどうかすらも怪しいものを『有る』と断じて考えていくのでしょうか。


それはどこに有るのだろうか。

『死体の中から死を取り出す』ことって出来るのだろうか。


『生命活動の不可逆的な停止』はただの『生命活動の不可逆的な停止』であって、それを何故『死』と言えるのでしょうか。


死とは何か、の前に、死って存在するのかな。


前回とは少し関係があるかもしれない。

いや、これが分からなければ『何が生きているのか』も分からないし、そもそも『生きているのか』ということになるから、と、ただの言い訳ですが。




自分とは何か


皆さんは『自分とは何か』と聞かれてどう答えますか?

自分とは自分のことです。そう言いたくなるかもしれませんね。

その通りです。自分は自分以外の何物でもないですし、自分は自分です。

でも、その『自分』とは何でしょうか。


大体こう聞くと、『体』です。と返ってきます。

確かに、体は好きに動かせるし、痛みも感じる。痛みを感じるということは、それはもう『自分』であるとしか思えませんから。

でも、果たしてそれは本当に『自分』なのでしょうか。




呼吸にしろ、消化にしろ、自分で意識的に行っている人はいませんね。呼吸は肺がするし、消化は酵素がするからね。

あれ?『体は自分』なのに、『体の生命維持は自分ではない』んだね。


体を形作っているのは『細胞』であることは、有る程度の学力があれば分かるね。

あれ?『細胞が形作っている体』は『自分』なの?


ここで「あっ!分かった。自分と言うのは細胞なんだ」

って言う人がいるかもしれないし、いないかもしれません。どっちでもいいですが、いたとしましょう。

細胞は山のように有るけれど、細胞が自分だとすれば、『どれが自分』なのだろうか。細胞全てが自分?じゃあ、『自分』というのはいくつもあることになるね。



もうちょっと考えてみます。

例えば貴方が爪を切りました。爪を切っても全く痛くないはずです。

あれ?『痛くないのに爪は自分』なの?



髪は自由に動かせません。

あれ?『自分なのに動かせない』の?


きった後に落ちている爪や髪は自分?もうそれは自分ではないね。

何でだろうか。もう既に体から離れているから?


だとすると、『自分は爪や髪を含まない』と言うことだね。

爪や髪を含むのなら、『体も、勿論自分』だし、『切り離された爪や髪も自分』になってしまうからね。

ということは、『爪や髪は体に有る時点でもう自分ではない』と言うことだ。

それとも、爪や髪が切り離されたら、それらに有った『自分』が、出ていくということだろうか。



腕や脚はどうだろうか。切り離された腕や脚は自分だろうか。

これは人によって答えは変わるかもしれない。

でも、大体皆『自分じゃない』っていうよね。

何故かは、前に書いた文章を思い出してみて。

『痛みを感じるということは、それはもう自分であるとしか思えませんから』


腕や脚を切り離したら『残った体の方は痛む』けれど、切り離された腕や足の『痛みは感じない』ね。

つまり、それは、『残った体の方に自分がある』と言うことだ。


偏屈な人はこういうかもしれない。

「切り離された腕や足も痛みを感じているかもしれないじゃないか」

確かにそうかもしれないね。でも、それは自分だろうか。

『自分の意志や、体の有る方』へ痛みは来ないけれど、それは『自分』なのだろうか。

自分でないとすれば、それはいったい誰なのだろう。


話を戻そう。

『自分は常に痛みの有る方にいる』と言うことだね。

成程。そう考えれば、髪や爪が自分ではないことも納得できる。



じゃあ、結局のところ、自分ってどこなのだろうか。

体を斬っていって、『体ではない方が痛みを感じれば、それが自分』だということだね。

実験は出来ないけれど、そんなところあるのかな。



さて、とりあえず。とってもとっても久しぶりですね。

一回書いたかもしれませんけど、第二種電気工事士・危険物取扱責任者(乙種4類)・そして漢字検定(準2級)に合格しました。

今は工事担任者(DD3)を勉強中です。

多分大多数の人にとってみればこんなことどうでもいいでしょうね。ごめんなさい。




哲学的考察……1  『“生きる”とは何か』



元々は『人はなぜ生きるのか』を考えていたんですけれども、それを考えていくうちにそもそも『“生きる”とは何なのか』という疑問に当たったので急遽方向転換して、『“生きる”の意味』ではなくて、『“生きる”の定義』を考えることにした次第です。



例えばジャンジャック・ルソーは『生きるとは呼吸をすることではなく、行動することだ』と言いました。


この言葉には疑問が浮かぶでしょう。『行動していないものは生きていないのか』。

確かに彼の言を表面的に受け取るとすれば、それもまた解釈・正解であって、個人的思想・価値観に基づく哲学の世界では正しいのですが、私個人としてはやはりそれに対して疑問に思うところがあるので、個人的解釈を含めた持論展開を行うとすれば、彼の言う『行動』とは、単なる物理的な運動や幾何学的な位置関係は勿論、『心の動き』つまり、『感情』をも含ませた言葉で有るのではないかと思います。


また、『呼吸(=生命維持活動)』というのも決して『自分の意志とは少しの関わりもなく、無意識に行われる活動』ではなく、『自発的に行う行動』であるという解釈もできるのかもしれません。


つまり、『呼吸をおこなっている』と言うのは、とりもなおさず『自発的な“行動”を行っている』ことに他ならず、彼の言を借りるとすれば『生きている』ということなのです。


さて、ここで論理的矛盾が起きたと思う方もいらっしゃるかもしれません。

彼の言葉は『生きるとは呼吸をすることではなく、行動することだ』だけれども、『呼吸は行動』でもあるからです。

極端にはなりますが、換言すれば、『生きるとは行動することではなく、行動することだ』となります。

確かに一見、彼の言葉を換言することに(極端であることを無視すれば)おかしなところはないし、換言した後の言葉には論理的矛盾が発生した(=元々の言葉にも論理的矛盾が発生した)ように見えるけれども、実はそうではありません。

一つ目の『呼吸(=行動)』は『自発的な“行動”』であるけれど、二つ目のように『感情』は含まれていないからです。

ここで、元の言葉を『生きるとは(ただ)呼吸(=自発的な行動)をすることではなく、(感情を含む自発的な)行動をすることだ』と考えることができます。


ジャンジャック・ルソーの言を借りて、私の考えた『生きる』或いは『生きている』とは『一つの個の中に、行動(⊃呼吸)と感情の両方が存在し、且つそれらが自発的に機能している状態』であると言えます。


※ただの工業高校生の『個人的な意見』です。