前回→『哀しみ』

今回→『言葉』



さて、『言葉』。不思議ですね。

ん~、例えば、『犬』と聞けばほとんどの人は『ワンワン吠えて、尻尾があって、毛がはえてて……、ネコ目(ネコ目なんですね……)-イヌ科-イヌ属に分類される哺乳類』を思い浮かべると思います。

でも、この時点で何か不思議に思わないでしょうか。『犬』は『いぬ』と読むただの文字でしかないし、『いぬ』もどこまで行っても、『いぬ』と読むただの文字でしかないはずです。今回は『言葉』なので、これを文字ではなく、『言葉(発話)』にしましょう。


言葉には実体がないですね。『言葉が見える-見えるようにできる』と言った様なアラレちゃんや、ドラえもんのような例がない(或いは極めて少ない、立証できない)ので、今は仮に蓋然的に(統計的に)『実体がない』としましょう。


実体のない言葉 を聞いて、何故『実体を思い浮かべる』のでしょう。それは『犬』が『ワンワン吠えて、尻尾があって、毛がはえてて……、ネコ目-イヌ科-イヌ属に分類される哺乳類』であることを、無意識に(或いは意識的に)知っているからです。子供のころに周りの人たちが『ワンワン吠えて、尻尾があって、毛がはえてて……、ネコ目-イヌ科-イヌ属に分類される哺乳類』を見て、 指さしてアレが『いぬ』であることを明確にし、学校で『いぬ』は『犬』と書く(-同じものである)ことを習うからに他なりません。

ここで、初めて『犬』という『実体のないもの』と『ワンワン吠えて、尻尾があって、毛がはえてて……、ネコ目-イヌ科-イヌ属に分類される哺乳類』という現実で見ることのできる『実体のあるもの』が繋がります。ではでは、それらが『繋がる前-完全に同値でない時』の『言葉』と『現実』の『繋がり』はどのようなものなのでしょうか。

もしかして、『繋がりはない』?だとすると、『言葉』と『現実』の繋がりは『経験に裏打ちされた、経験則』であって、『明らかにそれと同じであることはない』ということになります。つまりそれは人によって『犬』という言葉と現実の繋がりが違うということなのですが、実際は、ほとんどの人が『犬』と聞けば『ワンワン吠えて、尻尾があって、毛がはえてて……、ネコ目-イヌ科-イヌ属に分類される哺乳類』を思い浮かべます。

さてさて、『経験的に同じ』ものであるということは、『皆同じ経験をした』をいうことですね。つまり、それは『周りの人たちも皆同じ経験をした』ということで……ネズミ算式に増えていきます。


何故『実体のないもの-言葉』と『実体のあるもの-現実』が繋がるのか。これを考えるために、次回は『実体のないもの』と『実体のないもの』について考えます。



色々考察。哲学的かどうかは置いておこう。



さて、この前までブログのコメントでディベート(というよりかは、論理学のお勉強)をしていたわけですが、その後に『論理学に逃げている』なんて言われちゃいました。

論理学に『逃げる』とはどういうことだろう。


数学だったり科学だったりのいわゆる自然科学は、今現在に於いてこの世界に生きる大多数の人々の間の共通認識であって、『正しい』ということが保障されているものだ。それが宇宙全体としての真理かどうかは置いておくとしても、『この世界に生きる大多数の人々の間での』唯一絶対の指標とも言えるものである。


例えば、水とは何か、と聞かれれば流体であり、水素と酸素の化合物で云々とか。直角三角形の直角を挟んだ2辺の長さが3cmと4cmだった時の斜辺の長さは、と聞かれれば5cmだとか。

それは『自明的で当然な絶対的な答え』として返ってくるけれど、それが『当然な絶対的な答え』に成り得る為にはそれの証明を行う必要がある。つまり、『証明』は命題が当然で絶対的であるかどうかを知る上での基準だと言える。


だが、その証明の正しさは何に保障されているのだろう。証明自体が法則性のないただの文字の羅列であれば、その正しさは保証されないはずだ。

証明のただの文字の羅列に法則性を持たせ、それが『当然な絶対的な答え』であることを保障しているのは他でもない、論理学である。


上にあげた水の例にしても、それは『水』という物体・事象を何度も観察したうえで、蓋然的に導き出された(これも論理学、蓋然的推論)一つの答えであるし、三平方の定理にしても、その定理が正しいことを『論理学を用いた証明法』で

保障している。

とすれば、自然科学の正しさはすべて論理学に依存していることになる。これは、自然科学だけではなく、統計学であったり心理学であったり、と、証明や論理性を必要とする全ての学問に共通である。


さて、これを踏まえて『論理学に逃げている』を考えよう。

これは私が論理的に話すよう進める過程で言われた言葉だが、そもそも、上記のことを踏まえれば、『論理的でないものは基本的にない』と言えるはずなのだ。これは即ち、計算をしている人が数学を適用せざるを得ないことと同義である。

簡潔に例えるならば、

A『1+1=3でしょ』

B『いや、違うよ。それが違うことは数学によって保障されてるよ』

A『数学に逃げるなよ』

ということだ。


これは果たして、『逃げる』と言えるのだろうか。

答えは『自明的で当然な絶対的な答え』として出てくるように感じられるのは、私だけだろうか。



さて、間があきましたが、書いていこうと思います。

これで山月記シリーズは終わりです。多分。

今回は、山月記全体を通しての考察です。



まず、何故李徴は『虎』になったのか。


虎になった本質は『尊大な羞恥心』にあることは本文にも書かれています。この『尊大な羞恥心』は、誰もが心の中に飼っている『猛獣』です。だれもが虎に成るわけではないということです。

その中で、李徴が虎になったのは、袁さんが『どこか非常に微妙な点に於いてかけるものがある』と称した、その人間性に有ります。


動物には、その動物の『イメージ』というものが存在します。

例えば、あの有名な“ごんぎつね”は何故狐なのか。それは、狐は人を騙して『悪さをするというイメージ』があるからです。作者が人間嫌いだったらしいので、それに関係していると考えるのですが、話がそれるので、詳しくは説明しません。

さて、今回の『虎のイメージ』はどうでしょうか。神聖で、プライドが高そうだけれど、一方でどこか野性的で孤独なイメージがありますね。李徴の性格がそのまま反映されていると言っても過言ではありません。


尤も、これは“人虎伝”のアレンジであるし、中国が舞台だから虎なんだ。というのも勿論あるでしょうが、それだけだと何か面白くないですね^^;



山月記を通して、作者は何を伝えたいのか。読めばわかるように、この話は、人間がだれでも持っている野性的・感情的な部分(臆病な自尊心・尊大な羞恥心)を抑えきれなくなった一人の人間の末路を描いています。


作者の奥さんは彼の友達に『李徴は作者(中島)で、袁さんは貴方(氷上)だ』と言ったらしいです。

作者は結局、李徴を通して(或いは自己投影して)自分の中の生き様・人生観を書きつづっているのです。作者が李徴を完全に否定しているわけでないように見えるのもそのためかもしれません。


また、自分を知るということは、自分の才能を(良い意味でも悪い意味でも)認めるということです。人と交わりを断った李徴が虎となったのは、人と交わることで自分の才能を見つめ、認めることが出来なかったからです。

自分を知ることが一番大切なんだよってことなのかもしれません。


蛇足ですが、哲学には『汝、我を知れ』という言葉がありますし、論語には『是を知るを是を知るとし、是を知らずを知らずとせよ。是知るなり』という言葉があります。

昔から人は、自分を知ることの大切さ』を知っていたのかもしれません。



さて、これに関連して、もう一つの疑問も解決しておきます。


何故、李徴が人間であった時に作った数十篇の詩は本文中に書かれていなくて、虎になった李徴が即席で作った一つの詩が書かれているのでしょう。


ここで、前回出てきた『李徴が自分自身を理解している』ということが大切になります。

上述のように、『自分を知る』ということが何より大切であって、自分を知らなかった李徴が貧しくなってまでも頑張って書いたいくつもの詩よりも、自分を知ってから書いた即席の詩の方が、優れている(伝録に値する)ということを表しているのではないでしょうか。