今日はセドナのセッションの日でした。
根底にある欲求、ということで、制御、承認、安全、を使ってセッションを受けました。
受けてていつも思うのは、手放した後、今その感情に目を向けてみてどうですか?って聞かれるんだけど、いつも特に変わった気がしない。そして、「っていうか、ここで感情を認めても、手放しても、現実的には、これが終わったあとでそれに向かわなきゃいけないんだよね。それをしないと解決はしないのよね」と思ってしまうこと。
そういう思いは常にある。
それについても質問して、それなりに納得はいってるつもりだけど・・。
やっぱり現実重視な私。
「現実をどうこうしないと解決にはならない」 という観念がしっかりと根を下している私。
根底にあるなぁー。(笑)
それから、認めますか?はいいんだけど、「手放しますか?」という言葉が、若干、実際の「手放し」のイメージとリンクしない、というか逆のイメージなので、その言葉に抵抗があるのも事実。
手を放す、というのは、掴んだものを放すということではなく(それもあるけど)、
自分の中で、その感情を受け入れて、あるがままにさせる、ということなんですって。
だから、手を離す、捨てる、離れる、というよりは、
いいよいいよ、いてもいいよ、そのままでいいよ、好きにしてね、
という感じらしい。
その意識と、「手放す」という言葉から連想する私の意識にズレがある。
これ、今度質問してみようかなぁ。
思うに、手放すということは、自分と、親との関係に似ている。
自分が親に、こうして欲しい、こうあって欲しい、という気持ちに似ている。
どんな私でも、どんなに一般的には認められないようなことをしている私でも、
その行為はさておき、私自身への愛情は、変わらないで持っていてくれる。
その行為をしている私もひっくるめて、全部、変わらず愛してくれている。
受け入れてくれている。
私への評価を変えないでいてくれる。
もし親にそう思ってもらえたら、どんなに気持ちが楽になるか。
どんなに解放されるか。
弱い私も認めてよ。
ダメな私も認めてよ。
制御しようとしないでよ。
善さを押し付けないで。
今の私を認めてよ。
このままの私でいいって認めてよ。
親に、ああしなさい、こうしなさい、言われる時、また、何か悩みを口にした時(ほとんど言うことはないけど)、でもああしなきゃいけない、がまんしなきゃいけない、とか、お前は辛抱が足りない、とか言われたら、ああ、解ってもらえないんだな、って思って悲しくなる。そしてもう二度と言うもんかと思う。心を閉ざす。
認めてもらえたら。
ただ、ただ、他に何もしなくていい、何も言わなくていいから、
ただ、それでいいよ、って言ってもらえたら。
そう思ってもらえたら、自動的にスタックしていることは溶ける。
そう思う。
そういうことを、私の中で、自分自身でやるってことなんじゃないかって。
人の悪口を言ってる私。
人のことが嫌いな私。
すぐ逃げちゃう私。
すぐ不満に思っちゃう私。
そんな私なんか、愛してくれないだろうな。
そうやって壁を作る。
でも、それもひっくるめて、大好きって思ってもらえたら。
その感情は、今起こってる出来事に対して湧き上がってる感情なだけで、
自分自身がどうこうってことはないの。
悪いことを思っていたとしても、悪い自分になったわけじゃない。
その思いは思いとして、自分自身で向かえる時がくれば向かえばいいだけで、
でも、自分は自分。変わらず自分。
そういうことを、認めてもらえたら・・。
その感情に左右されず、
「ああ、今はそう思ってるんだね。ふぅん」
って感じで、それについてとやかく言わないで、
説教したり、変えようとしたり、常識を押し付けようとしたりしないで、
ただ、私が思ってるってことを、そのまま受け止めてくれて、
「解った。でもお前への評価は変わらないよ。変わらず、愛してるよ。変わらず、認めてるよ」
そう言ってもらえたら・・。
そう思ってもらえたらどんなにか・・。
それと同じことを、自分でしてあげられたらいいんだよね。