セドナ2-2 | なるべくカンタンに自己実現。

なるべくカンタンに自己実現。

慎重、臆病、三日坊主。
極めつけ、面倒くさがり。
でも幸せに夢を叶えたい。

そんな私の自己実現日記。

今日はセドナのセッションの日でした。


根底にある欲求、ということで、制御、承認、安全、を使ってセッションを受けました。



受けてていつも思うのは、手放した後、今その感情に目を向けてみてどうですか?って聞かれるんだけど、いつも特に変わった気がしない。そして、「っていうか、ここで感情を認めても、手放しても、現実的には、これが終わったあとでそれに向かわなきゃいけないんだよね。それをしないと解決はしないのよね」と思ってしまうこと。


そういう思いは常にある。


それについても質問して、それなりに納得はいってるつもりだけど・・。


やっぱり現実重視な私。


「現実をどうこうしないと解決にはならない」 という観念がしっかりと根を下している私。



根底にあるなぁー。(笑)



それから、認めますか?はいいんだけど、「手放しますか?」という言葉が、若干、実際の「手放し」のイメージとリンクしない、というか逆のイメージなので、その言葉に抵抗があるのも事実。


手を放す、というのは、掴んだものを放すということではなく(それもあるけど)、


自分の中で、その感情を受け入れて、あるがままにさせる、ということなんですって。


だから、手を離す、捨てる、離れる、というよりは、


いいよいいよ、いてもいいよ、そのままでいいよ、好きにしてね、


という感じらしい。


その意識と、「手放す」という言葉から連想する私の意識にズレがある。


これ、今度質問してみようかなぁ。




思うに、手放すということは、自分と、親との関係に似ている。

自分が親に、こうして欲しい、こうあって欲しい、という気持ちに似ている。



どんな私でも、どんなに一般的には認められないようなことをしている私でも、

その行為はさておき、私自身への愛情は、変わらないで持っていてくれる。


その行為をしている私もひっくるめて、全部、変わらず愛してくれている。

受け入れてくれている。


私への評価を変えないでいてくれる。



もし親にそう思ってもらえたら、どんなに気持ちが楽になるか。

どんなに解放されるか。


弱い私も認めてよ。

ダメな私も認めてよ。


制御しようとしないでよ。

善さを押し付けないで。


今の私を認めてよ。

このままの私でいいって認めてよ。


親に、ああしなさい、こうしなさい、言われる時、また、何か悩みを口にした時(ほとんど言うことはないけど)、でもああしなきゃいけない、がまんしなきゃいけない、とか、お前は辛抱が足りない、とか言われたら、ああ、解ってもらえないんだな、って思って悲しくなる。そしてもう二度と言うもんかと思う。心を閉ざす。


認めてもらえたら。


ただ、ただ、他に何もしなくていい、何も言わなくていいから、

ただ、それでいいよ、って言ってもらえたら。


そう思ってもらえたら、自動的にスタックしていることは溶ける。


そう思う。



そういうことを、私の中で、自分自身でやるってことなんじゃないかって。



人の悪口を言ってる私。

人のことが嫌いな私。

すぐ逃げちゃう私。

すぐ不満に思っちゃう私。


そんな私なんか、愛してくれないだろうな。


そうやって壁を作る。


でも、それもひっくるめて、大好きって思ってもらえたら。


その感情は、今起こってる出来事に対して湧き上がってる感情なだけで、

自分自身がどうこうってことはないの。


悪いことを思っていたとしても、悪い自分になったわけじゃない。


その思いは思いとして、自分自身で向かえる時がくれば向かえばいいだけで、

でも、自分は自分。変わらず自分。


そういうことを、認めてもらえたら・・。


その感情に左右されず、


「ああ、今はそう思ってるんだね。ふぅん」


って感じで、それについてとやかく言わないで、

説教したり、変えようとしたり、常識を押し付けようとしたりしないで、

ただ、私が思ってるってことを、そのまま受け止めてくれて、


「解った。でもお前への評価は変わらないよ。変わらず、愛してるよ。変わらず、認めてるよ」


そう言ってもらえたら・・。

そう思ってもらえたらどんなにか・・。



それと同じことを、自分でしてあげられたらいいんだよね。