☆朝鮮通信使「日朝友好の架け橋」←大嘘です。 | きゅうじのブログ アメブロ版

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国土交通大臣赤羽 一嘉議員「韓国は日本に文化を伝えた恩人のような国」

静岡県川勝平太知事「日本は朝鮮に武力で侵攻し、そこで出会った朝鮮の文化に兜を脱ぎました」。

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公明党やリニア建設を邪魔し中韓に忖度する静岡県知事の言動は流石に目に余ります。

このような間違った歴史認識を持つ人物が日本の行政に携わってることが残念でなりません。

 

さんは朝鮮通信使と聞いて 学校では「日朝友好の架け橋」だった。 

とか教わったのではないでしょうか。 

結論から、お伝えしますと、

「朝鮮通信使の方が、日本の文化や技術を持ち帰った」

というのが事実で真実は180度異なるのです。

http://japanese.korea.net/Events/Overseas/view?articleId=3339画像

韓国の歴史教科書では、 野蛮で文化の未開だった日本に哀願され、「朝鮮通信使が日本に文化を伝えにいった」と、とち狂った妄想を韓国の子供たちにマジで教えているのです。

wikiでは以下のような記載があります。

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>1429年、日本に来た朴端生は、「日本の農人、水車の設けあり」として、学生の金慎に「造車の法」を精査させて模型を作り、鍍銀(銀メッキ)、造紙(紙漉)、朱紅、軽粉などの製造法を祖国に報告している。 

日本の貨幣経済の実態や、店舗商業の発展等にも及んだが、その中で技術にまで言及していたのは、渡航前に世宗から「倭の紙、堅籾、造作の法また宜しく伝習すべし」と、日本の技術を導入するように命じられていたからである。

水車はその百年以上も前に、「徒然草」(第五十一段)に記されており、当時には農民達の手で取り付けられていた事を考えると、日本と朝鮮の間には相当の技術格差があったのではないかと考えられる。(wiki引用)

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結局、製造法を持ち帰ったにも関わらず、朝鮮人はその後、水車を自力で作ることが出来ず、朝鮮半島での水車の誕生は日韓併合になるまで待つことになります。 

嫌韓サイトのコメント欄や、5ちゃんねる等で、度々使用される「水車も作れないくせに」の一言は、この事実を踏まえて揶揄したものなのです。皆さんよく勉強されていますよね。

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江戸図屏風に「朝鮮通信使」の様子が描かれているのですが、一部の儒教関係者だけが朝

鮮通信使に近寄っています。

江戸の庶民の人々は「珍しい格好をしたおかしな集団が来た」と見物として見ている姿が描写されています。

日本の使節団がちょんまげ姿でアメリカに初めて行ったとき驚いていたアメリカ人みたいですよね。

賛否両論はあると思いますが、朝鮮通信使達が城へ入る門に注視していただきたいのです。 

裏門なのです。

その事からも朝鮮通信使達の位が低い扱いであった事がよくわかると思います。

韓国人や在日朝鮮人、在日韓国人が主張する文化を伝えに来た朝鮮通信使の本当の目的は、

「日本を怒らせて侵略されないように貢物を献上し、ご機嫌取りに伺っていた」

だけなのです。 

将軍様が変わるたびに長い道のりを経て江戸に来たのもそういう理由だからです。

又、江戸時代は大名に「徳川家の権力を見せつけるためだけ」に幕府から旅費を出して来させていただけなのです。

ただそれだけの理由です。

ただこれが、日本の庶民にとっては実は「大迷惑な一行」だったのです。 

なんせ厠の習慣もない民族です。 

※日韓併合されるまで人糞は道端にまき散らしていました。

半島から江戸までの道のりで、至る所、大人数であちこちに排泄物をまき散らす為、すごく迷惑がられていたのです。 

朝鮮通信使など日本の庶民にとっては来てほしくない一団だった理由がよくわかります。

wikiでは以下のような記載があります。

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>文化の違いや日本人に対する侮りから、通信使一行の中には、

屋内の壁に鼻水や唾を吐いたり

小便を階段でする

酒を飲みすぎたり

門や柱を掘り出す

席や屏風を割る、

馬を走らせて死に至らしめる

供された食事に難癖をつける

夜具や食器を盗む

日本人下女を孕ませる、

魚なら大きいものを、野菜ならば季節外れのものを要求したり

予定外の行動を希望して、拒絶した随行の対馬藩の者に唾を吐きかけたり

といった乱暴狼藉を働くものもあった。

警護に当たる対馬藩士が侮辱を受けることはしばしばあり、1764年(宝暦14年)には大坂の客館で、対馬藩の通詞・鈴木伝蔵が杖で打ち据えられ、通信使一行の都訓導・崔天崇を夜中に槍を使って刺殺するという事件まで起こっている。 

これは朝鮮の下級役人が鏡を紛失したと聞いた崔天崇が「日本人は盗みが上手い。」と言ったのを鈴木伝蔵が聞きとがめ、かねてよりの朝鮮人の窃盗行為を非難したのが発端であった。

江戸時代後期の儒学者菅茶山は「朝鮮より礼儀なるはなしと書中に見えたれど、今時の朝鮮人威儀なき事甚し。と、朝鮮人が伝聞とは異なり無作法なことに驚いている。 (wiki引用)

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 「鶏を盗んで町人と喧嘩する朝鮮使節」 

「鶏泥棒」実は当の本人たちが認めています。

関連画像

朝鮮通信使御一行 が庶民から鶏を盗んで反撃されてんやわんやの大騒動となりました。

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朝鮮通信使の弁明

「縁石に移して 入れられた食べ物を見れば、 これがあまりにも奇怪な品。転覆(?)やタコ等、皆を刻んで、 混合して盛り付けた物を 丸く積み上げ、 1滌浄の高さに引き立てている。様々な色で、 形態は皆四角ばる。 伊勢えびというのが 生で置かれている。 海老の一種だが、 本当に大きいのだ。 それ以外は名前も分からない物が 気まずく並んでいて その数は数十にも達するが 食べることができることは全然ない」

こんな物食えるか!

朝鮮通信使より

だからお腹が空いて 祖国でしているように 鶏を盗んだ。 肉が食いたかっただけだ。 鶏を金で買えと言うのか? 金で鶏を買うなどという 儒者にあるまじき 下賤な行為は出来ぬ。

だから盗んだのだ。

何故日本人は 我ら崇高なる儒者を 棒で叩くのだ?

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このことから、李氏朝鮮の官僚や両班にとって、食い物など「勝手に盗ってよし」は普通のことであった事がよくわかります。

鶏を盗んだことで、自分たちが「日本人になぜ咎められるのか」理解できなかった事も良くわかるのです。

一行は旅先布団食器も盗んでいたそうです。 

昔から泥棒なのですから、朝鮮半島のDNAに叩き込まれているのかもしれません。

日本のおもてなし料理も、当時の朝鮮人には通用しなかったようですね。

 
 

 

 

朝鮮通信使

屋内の壁に鼻水や唾を吐いたり小便を階段でする。

酒を飲みすぎたり門や柱を掘り出す。

席や屏風を割る。

馬を走らせて死に至らしめる。

提供された食事に難癖をつける。

夜具や食器を盗む。

日本人下女を孕ませる。

魚なら大きいものを、野菜ならば季節外れのものを要求する。

予定外の行動を希望して拒絶した随行の対馬藩の者に唾を吐きかける。

現在の韓国人

ホテルの廊下で酒盛りや花札をし、酔って日本人宿泊客の部屋のドアを叩く。

ハングルでちゃんと注意書きしているにも関わらず、湯船にタオルを付けたり、掛かり湯をせずに入る。

居酒屋で、4人で生ビールを1杯だけ注文し、持ち込みのキムチなどをつまみつつ1時間以上居座る。

神社で絵馬(日本人が書いたもの)にハングルで「独島は韓国の領土」「対馬は韓国の領土」などと上書きする。

スーパーで買ったばかりの商品を店内で食べる。

スーパーで会計を済ます前の商品をパッケージを開けて食べる。

パッケージを開けた商品を元の場所に戻す。

飲食店で食い逃げしたり、頼んだものを「食べてない」と言って支払い拒否する。

漁業資源を守るため外国人に禁止されている「撒き餌」をする。

しかも余った餌や売れない小さな魚を捨てて帰る。

夜釣りをして磯場を荒らし、注意すると「日本の法律に夜釣りをしてはいけないとは書いてない」と開き直る。

釣りにかこつけてアワビ・サザエの密漁をし、税関で「買ったものだ」と嘘を付く(プロ釣り師)。

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朝鮮通信使の嘘がお分かりいただけましたでしょうか?

今も昔も朝鮮人は何も変わりませんね。

価値観が違う国とは一日も早く縁を切りたいものです。

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参考

朝鮮通信使の真実】

http://kokis.client.jp/noby/n45_tushinshi.html

金仁謙の「日東壮遊歌」について

http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid1376.html