金蔵坂(H>N)の由来 | こまあんにゃ ネガ・ネガ 生死確認

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 まぁ、どうでもいい事を書くのも、「日記」書庫だから、H.Nの由来をお教えしましょう。
 
 江戸時代、新潟市の西区には、西蒲区にかけて大きな「潟」があって、その潟の影響で新潟市周辺の米は「鳥も跨いで通る」と言われる位、食べられたものじゃなかったらしいです。
 
 江戸時代、19世紀に入ってから、今の新潟市西区中野小屋地区の庄屋みたいな人(割元)、伊藤五郎左衛門さんを発起人にして、日本海にその潟の水を流す事を、幕府とか藩(長岡藩と村上藩の領地内だった)に認めさせてできたのが、「新川」っいう人工河川。
 
 自然河川の「西川」と立体交差させている、結構全国的にも珍しい川です。立体交差と、大きな坂の切り崩しが難工事だったそうです。
 
 その大きな坂って言うのが、「金蔵坂」です。海抜19メートルを、当時は勿論人力で0メートルまで掘り下げて、開通させた川なんです。
 
 このH.Nには似つかわしくない性格なんで、敢えてこれにしたんだと思います。
 
 決めたときは無意識ですけどね。