ガード下の靴みがき
作詞:宮川哲夫
作曲:利根一郎
紅い夕陽が ガードを染めて
ビルの向うに 沈んだら
街にゃネオンの 花が咲く
俺ら貧しい 靴みがき
ああ夜になっても 帰れない
「ネ、小父さん、みがかせておくれよ、
ホラ、まだ、これっぽちさ、
てんでしけてんだ。
エ、お父さん? 死んじゃった……
お母さん、病気なんだ……」
墨によごれた ポケットのぞきゃ
今日も小さな お札だけ
風の寒さや ひもじさにゃ
馴れているから 泣かないが
ああ夢のない身が つらいのさ
誰も買っては くれない花を
抱いてあの娘が 泣いてゆく
可愛想だよ お月さん
なんでこの世の 幸福(しあわせ)は
ああ みんなそっぽを向くんだろ
➡️1955(昭和30)年8月に発売された、宮城まり子さんのヒット曲です。
大東亜戦争が終わって10年たった年の曲ですが、なお靴磨きをしている戦災孤児がいたことがうかがわれます。
戦争が終わると、空襲などで親も家も失った戦災孤児たちが、街にあふれました。
彼らは、生き抜くために、靴磨きや露店の手伝い、女の子は花売りなどをして、その日その日をしのぎました。そのなかには、小学校入学前の幼児もいたといいます。
今を生きる私達には、想像も出来ない苛酷な日々。
戦争が終わってからが、本当の「戦争」だったと言えるかも知れません。
私達が幼少の頃は、まだまだ戦争の名残はありました。
防空壕、トーチカ、不発弾、そして帰還兵…
昭和40年代は、庶民は貧しく、教育の場では軍隊式が幅を利かせていました。
私は嫌いではありませんけどね、軍隊式教育は。
それはともかく、歌詞を読むと胸がつまります。
宮城まり子さんの明るい歌声が救いですね。
宮城まり子さんは、女優、歌手としても有名な方ですが、1968(昭和43)年に肢体不自由児の社会福祉施設「ねむの木学園」を設立したことでも知られます(この頃より、タレント活動は事実上引退状態となる)
1974(昭和49)年には記録映画「ねむの木の詩」を製作・監督し、第6回国際赤十字映画祭で銀メダル賞を受賞しました。
この映画は、私達も半ば強制的に見せられました。
作家吉行淳之介と交際し、彼の死までよきパートナー関係(都内の互いの自宅で同居)であったと言います。
また、信心厚いクリスチャン(プロテスタント)で、作家室生犀星にも可愛がられていましたが、犀星の見舞いにクリスタルカップを贈ったところ、森茉莉(森鴎外の長女)に取られてしまったと、犀星のエッセイに書かれています。
本年2020(令和2年)年3月21日、悪性リンパ腫のため東京都内の病院で死去。
享年93歳。
奇しくも生没同日(昭和2年3月21日生まれ)でした。
ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
合掌