忘れ得ぬ歌ぱーと873「窓に明かりがともる時」 | 遊遊のブログ

遊遊のブログ

思い出の曲を、思い出と共に、気ままにアップしたブログです。


窓に明りがともる時 

作詞:山上 路夫
作曲:村井 邦彦


たそがれ街にせまれば
あかりがともるよ窓に
今日という日を 生きて来たの
だれもが生きたの


私もあかりともすの
小さな二人の部屋に
今日も疲れて帰る人を
むかえるの愛の灯が


誰でも生きてゆく時
いくたび あかりをともして
一つだけのこの人生
送るのよ誰でも


あなたと二人これから
いくたび あかりをともすの
数えきれない あかりともし
いつもあしたにゆくの


あかりのむこう いつも明日がある
朝日が昇るよ 窓に
あかりがゆれる街の空の上
明日がやって来るのよ

➡️1973(昭和48)年4月5日にリリースされた、赤い鳥12枚目のシングル「みちくさ」のB面曲で、美しい星』同年1月6日にリリースされた、7枚目のアルバム「美しい星」と同年のクリスマスにリリースされた9枚目の「ミリオン・ピープル~赤い鳥コンサート実況録音盤」に収録された曲です。

赤い鳥は1969(昭和44)年に結成、1970年代を中心に活動し、1974(昭和49)年解散と、活動期間は5年余りですが、数々の佳曲を残しています。

1969(昭和44)年4月に兵庫県尼崎市武庫之荘にある公民館(通称「赤い屋根の家」でコンサートを開催し、同年11月「第3回ヤマハ・ライト・ミュージック・コンテスト」に関西・四国地区代表として出場し「竹田の子守唄」「COME AND GO WITH ME」を歌い、フォーク・ミュージック部門の第1位を獲得、他部門の優勝グループを抑え、グランプリを獲得しました。

このコンテストにはオフコース(当時は「ジ・オフ・コース」)チューリップ(当時は「ザ・フォー・シンガーズ」)も出場しており、財津和夫さんはオフコースに、小田和正さんは赤い鳥にそれぞれ「負けた」と思ったそうです。

この曲は、山本潤子さんがメインボーカルで、平山泰代さんはコーラスに回っていますが、それがまたピッタリで、B面曲にしたのは勿体無い位の曲です。

さて、今日は3月11日。

9年前の2011(平成23)年3月11日(金曜日)14時46分18秒、宮城県牡鹿半島の東南東沖130キロメートル(北緯38度06.2分、東経142度51.6分、深さ24 km)を震源とする東北地方太平洋沖地震、いわゆる「東日本大震災」が発生した日です。

震災による死者・行方不明者は1万8428人、建築物の全壊・半壊は合わせて40万4893戸が公式に確認され、震災発生直後のピーク時においては避難者は約47万人、停電世帯は800万戸以上、断水世帯は180万戸以上等の数値が報告されています。

復興庁によると、2019年7月30日時点の避難者等の数は5万271人となっており、避難が長期化していることが特徴的とのことです。

津波による浸水面積 - 561 km2は、神戸市に匹敵する面積です。

死者・行方不明者の中には、私の従兄夫婦と姪っ子が含まれています。

姪っ子は18才で、震災の前の日に写メを送って来ました。
それが遺影となったのが辛くて、今でも夢に出てきます。

あのまま新潟にいたならば…と思いますが、私より辛い方々は沢山おられます。

震災の1年後。
震災復旧の為、宮城県行を希望しました。
仙台港にフェリーが着いた時は感じませんでしたが、仙台空港の復旧現場を見た時は、全く言葉が出ませんでした。

従兄夫婦の家は、きれいサッパリ流され、遺体が揚がったのが奇跡だったようです。

しかし1年も過ぎ、被災地の家々には明かりが点り、今日を逞しく生きている方々の想いが伝わって来ました。

1年余の現場作業では、嫌な事もあったのは事実ですが、住民の皆さんの「御苦労様です」のひと言が、何より嬉しかった。

日本は災害リーチ国です。

そんな中で、私達以上にご苦労されたのが自衛隊の皆さんです。

西村真吾先生のブログより転載させて頂きました。
「9年前の3月11日、午後2時46分18秒、宮城県牡鹿半島東南東沖130㎞の海底で
マグニチュード9の大地震が発生した。
そして、巨大津波が東日本を襲った。
この一千年に一度の未曾有の大災害で明らかになったものは、
「天皇のしらす国」
という我が国の本質である。
「しらす」とは、自他の区別無く一体となる、
つまり、家族となる、ことだ。
従って、この時、我が国を統治されていたのは、国民と家族のように一体になった
天皇陛下である。

自衛隊は、国民の救助救援を目的とした
陸海空自衛官からなる、空前の10万7000人の統合任務部隊を結成した。
その隊長である君塚栄治東北方面総監陸将は、
被災地激励の為に自衛隊機で松島基地に降り立たれた天皇陛下に対し、鉄兜に野戦服の姿で正対し、敬礼した。
この時、10万7000の自衛隊統合任務部隊は「天皇の部隊」「天皇の自衛隊」となり、
彼等は、寝食を忘れて被災地住民の救助救援活動に突入していった。
そして、全生存者救出数のうち、七割を救出するという圧倒的な力量を示し、任務を全うした。
明治天皇の
次の御製が思い浮かぶではないか。
『敷島の大和心のををしさはことあるときそあらわれにける』 」

亡くなられた方々に対し、私の身内とともに謹んでご冥福をお祈り致しますと共に、自衛隊や警察、消防、海保、医療チームの皆さんに対し、敬意を表します。

この先もどうか風化しませんように。
合掌