「したい」と「しなければ」の境界線 | エルコのブログ ~ドイツはライン川のほとりで~

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ドイツはライン川の近くに住むエルコが、日常の風景をお届けします

子供が生まれるまでは、この境界線ははっきりしていました。

したいか、したくないか。

もしくは仕事のように「しなければいけない」か。

 

子供に関わることは私の気持ちに関わらず「しなければならない」に属します。

最近は、娘の遊びに付き合うのが苦痛で、「したくない」と言ってしまったりはしますが、それでも公園に行きたくなくても行くし、娘の友達の家に行きたくなくても行きます。それが、しなければならないことだから。

 

私の好きなことって何だろう?と考えたことがあります。

パンやお菓子を作るのが好き。

裁縫も好き。

でも、純粋に好きというだけではなく、必要に迫られて…という側面もあるんです。

 

日本のふわふわ食パンが食べたい、メロンパンやコロネのような菓子パンが食べたい、お弁当に惣菜パンを持たせたい。

勿論、ドイツのパン屋さんには売ってませんから、食べたければ自分で作るしかありません。

 

娘の洋服を買う時にスカートを探したことがありましたが、小さなものなのに大人用より高いしデザイン重視で機能性が悪い。

上着に関しては、朝晩の気温差が激しいので重ね着をして対応をするんですが、丁度良い厚さや素材のものが見つかりません。

値段と機能性を考えた時、やっぱり作るのが一番良いとなります。

 

好きだから作るのは楽しいんですけど、頭の何処かに「作らなければならない」という気持ちがあります。

したいからしてるのに、義務感があるんです。

 

夫が友達の所に行く金曜日の夕飯は娘と二人だけなので、それぞれ好きなものを食べることにしています。

私はカルパッチョを食べていました。

すると夫が「それ、広告の品じゃないと良いんだけど」と言います。

「え?勿論、安売りだから買ったんだよ」と私。

「いつも広告を見てるのは知ってるから言うんだけど、自分の食べたいと思うものを、食べたい時に食べてよね。安売りしてるからこれを晩御飯にしようとか、これは来週安売りになるから、それまで待とうとか考えないでね」と夫。

 

別にケチケチしてるわけじゃないんですけど、事前に広告を見て安かったのは知っていますし、じゃぁ金曜日にでも食べようかなと思って買ったんです。

どうしても食べたかったわけじゃないけど、簡単に食べられるものだし、それなりに好きだしそれなりに美味しいし、「これで良いや」と決めました。

 

夫が言わんとすることは「これが良い」で決めてということ。

私がしてるのは「これで良いや」。

 

純粋な好きという気持ちが、ここにもありません。

好きな気持ちはあるけれど、それよりも手軽さや安くなってるからといった打算が多くを占めている気がします。

 

安物買いの銭失いは嫌なので、安くても質の悪いものは買いません。

安くても味が良ければ敢えて質とか健康とかは無視しますけど。

 

定価よりも安くなっているものを上手く買うという喜びや達成感はあるんですけど、それが使命感に変わっていっている気もしなくはありません。

つまり、いかに安く買うかとか安く買わなければ気が済まないとか。

 

夫はそこを心配して「欲しければ多少高くても買って」と言うんですね。

買ってますよ、本当に必要ならば。

例えばキュウリ。

こっちのでっかいキュウリは、今の季節安売りで80セントくらいになりますが、日本のに近いミニキュウリは750gで2,99ユーロ。ごくたまに安売りで1,99ユーロで出ますが、本当にまれ。

安売りにならないなら定価で買うしかありません。

でも、それは私が食べたいからというより、娘と夫が美味しいと言っているから買います。

勿論、私も美味しいと思います。

だから、「必要だから」買います。

 

ここでもまた、「欲しければ」と「必要だから」の違いがあります。

「必要だから」には「欲しい」気持ちも含まれてますが、純粋な私の欲望ではありません。

 

本当に私の純粋な好きという気持ちや欲しいという欲望と、義務感や使命感、必要性の境目が分からなくなっています。

 

夫は、例えばチョコが食べたい!となったら定価で買います。

私は欲望があらわになる前に、安売りしていたら買います。

いつでも食べられるように。

 

価値観の違いなんでしょうけど、好きな時に好きなものを…と言われて戸惑うしかありません