私がしばらく離れていた肉親の顔だ。母の顔、伯父の顔、しかし、私はその顔の中から、たったひとつの顔の中から、一つの顔を探していた。
それは田中の顔だった。無い。田中の顔が無い、アッ。私は刺されたのだった。彼は警察に引かれて行ったにちがいない。彼はどうしているだろう・・・・私はその事が気になって、目をつぶったままだった。何か心配そうに母が言っているけれど、何も答えたくない。
私の身内のものは、田中を極度に罵り、怒り、悪者にしている。私はそれを聞きたくない。
私は田中を愛している。田中も私を愛している。「シャラップ!」(だまれ)私は、
大声でそう叫びたかった。
私達の本当の気持ちなどこの人達には、分からないのだ。
田中はひとを通して、警察から自分の心境を私につたえて来た。
それは変わらない愛を誓って、いつまでも、待ってくれるようにという言葉だった。
私もいつまでも待とう。
傷は盲腸の下のほうで、脊髄の血管が切れて、腸が三箇所も切れていたほどだったそうだ。
がしかし、私は不思議に助かった。
手術は二度された。私はしかしひどく衰弱している。田中はこんなにも私が弱くなっていることを知らないだろうか。
(続く)
フランスのテロでは、表現の自由が叫ばれ、再び書かれたムハンマド(マホメット)の漫画が出版された。
表現の自由とは、その国の政府が侵害したり、制限したり、介入するもので、もともと他国や外国人には関係がない。したがって、フランスの表現の自由はいささかも揺るがないので、表現の自由を主張しても、何の意味もない。たとえば、日本の場合とアメリカ、その他各国の映画、出版物の暴力、わいせつの制限、禁止事項は相違していて、各国が違う。完全に自由な表現の自由はなく、制限者は、国家権力であり、制定するのは、議会であり、議会は国民に選ばれた議員だ。
アメリカにおけるテロは、CIAなり、FBIが常に捜査して、事前に防いで逮捕摘発している場合もあれば、実際に起きている場合もある。国家は、国民の生命を守らねばならないからだ。
フランス人は、イスラム教にさらに「からかいの絵」を見せる事よりも、テロの事前防止を強化せよ、とよびかけるべきだ。これをやらないで、あくまでも、イスラム教徒に呼びかけても、真面目な生活人のイスラム教徒が生きにくくなるだけだ。犯罪者としての、テロリストを捜査し、摘発したら、刑事訴訟法にもとづいて、しっかり裁判をして、無実の有罪をつくらないようにしないといけない。
日本の新聞は、風刺画の掲載を見送ったり、掲載して読者に判断をまかせたりしたが、掲載した上で、「私はこのような絵は、うまいとも、気がきいているとも、ユーモアがあるとも思わない、皆さんはどうですか」と議論するのが、言論表現の自由で、当たらず触らず、意見を控えることは、言論表現の放棄の始まりだ。
私は、あの絵をフランス社会が許容することは、自由だとした上で、いい「風刺画」思わずにやりとするいいユーモアが感じられるとは言えない絵だと思う。
あなたが、そう思うのは、自由、と言うのが、表現の自由なのではなく、相手の表現を束縛しないが、良し悪し評価をしあうのが、表現の自由のある社会だといえる。
その点、韓国ドラマを禁止するのは、よくないし、韓国で日本のドラマや映画が見る自由の無いムードがあったり、政府が禁止しているならば、韓国は、表現の自由度が低いということだ。