1932年の三国志 | 気になる映画とドラマノート

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1932年5月の段階で、(現在の中国東北部)熱河省は中国国民党統治下に入ってはいなかった。

 


 

 熱河省主席は湯玉麟で、満洲国建国宣言に賛同署名するほど、まったく蒋介石の意思と離れた独自行動をとっていた。

 


 

 加藤陽子は、「満州事変から日中戦争へ」の中で、「蒋介石が張学良に湯玉麟の処分を命じた」と記述しているが、この表現はまるで、張学良が中国という国家の一閣僚で、その部下が湯玉麟なので、降格させなさい、といっているかのように感じるが、事実は、「処分」とは、「脅迫して、別な土地に追放しろ」という意味以外ではない。

 


 

 また、張学良はこの命令を実行せずに、張学良傘下の軍隊二個旅団を、湯玉麟の支配する熱河に派遣すると、返答する。これに対して蒋介石は、「それではいけない、二個旅団ではなく、三個旅団にしなさい」というが、張学良は拒絶する、という具合で、まったく、上意下達組織の態をなしていないことがわかる。

 


 

 その後、張学良は五個旅団を熱河省に駐留させて、日本の関東軍を警戒するが、関東軍に撃破されてしまう。

 


 

 しかし、こうした日本の関東軍との軋轢は、やがて中国国民党内部の自己防衛の必要からする組織編成の急速な再編が行われ、むしろ、日本の満州国建設と安定化のための周辺軍閥掃討作戦が、中国国民党の近代国家としての再建の自助努力を促進する結果になる。

 


 

 北京大学教授の胡適は、熱河における張学良軍の惨敗を「中国がなぜここまでダメになったか、反省しなければならない」と言ったが、もともと、熱河で敗れた張学良軍とは、満州地域を支配していた軍閥の私兵が、輸入した兵器で武装して、蒋介石に「きょうから中国軍」と言われただけで、国軍としての訓練を受けていないのだから、国の軍隊としての関東軍に勝つわけがない。

 


 

 事実1933年2月23日のニューヨークタイムズもまた、「中国は国家の定義に当てはまるのか、疑問だ」と書いた。

 


 

 熱河戦で張学良の軍が関東軍に敗北したことをひとつの区切りとして、中ごくの国民党の汪兆銘は、中国の国として体をなさない状態を直視して、仮に中国がソ連、アメリカの力を借りて、日本を排撃したとしても、中国はソ連かアメリカの分割属国になるだろう。となれば、日本をむしろ、アメリカ、ソ連の緩衝国として利用するために、日本とのつかず離れずの外交関係を結ぶほうが懸命だと、まことに優れた洞察に達していた。

 


 

 後に、この汪兆銘の洞察は、日本敗戦後の中国の共産主義一党独裁国家として実現してしまう。

 


 

 この時の国民党は、このような日本敗退後は、中国はソ連かアメリカによる破壊と亡国を免れない、という大きな視野を持つ汪兆銘が、外交のトップ。そして、むしろ、そこまでの認識を持たない蒋介石が主席という状態だった。

 

 汪兆銘に共鳴する党内勢力は少なく、多くは、ソ連、アメリカの力を借りて日本を壊滅させることが先決だという考えが優勢という状況。

 


 

 汪兆銘は、米英ソ連携で日本と対立した場合、日本は必ず敗北する。しかし、問題は、その先だ。その先は中国に活路があるわけのものでもない、と考えた。

 


 

 現に、中国に欧米の租界があるがごとく、日本がさっても、いよいよ、欧米の分割地になるだけだ、と汪兆銘は考えた。これは、韓国にあてはめれば、日本がさっても、ロシアをどうするのか、という発想があるのか、どうかという事と同じだった。

 


 

 折しも、1933年11月に米ソ国交回復が行われて、米ソ・英対日本という構図が現実味を帯びてきていた。

 


 

 一方、日本政府もまた、1933年10月からの内閣会議の主要議題は、平和維持のために、「中国・ソ連・米国」にとくに注意をはらって、親善関係を図らねばならない、というものであったから、まったく「軍国主義」の一枚岩というわけにいかない。

 


 

 もし、いや、軍国主義だった、というなら、ではなぜ、政府一丸攻撃計画をねらないのか、という疑問に答えられるわけがない。

 

 むしろ、ソ連はまさに本格的に戦争準備に着手して、1933年夏から、極東ソ連軍を23万に増強し、満州国境には、長大なコンクリート築城を始めた。

 

1933年夏の軍備増強に続く11月の米ソ国交回復と、ソ連もまた、アメリカのオレンジ計画同様、戦争の本格的な準備に入っていた。

 


 

 この時、ソ連の極東航空兵備は、日本を100とすると、ソ連が163で、ソ連は、戦争について万全の用意をしていた。これのほうがよほど軍国主義なのではないか。

 


 

 ※このことは、猪木正道が、第一次大戦後、人類は価値観の変化があって、日本だけが戦争をする気があって、他は平和を希求する国になっていた、という考えがまったくの夢想だったことの証拠でもある。

 


 

 かててくわえて、1933年6月、アメリカのルーズベルト大統領は、大恐慌のどん底のために、国際軍縮会議を忌避する姿勢を持っていた。なぜなら、軍事関係の予算を削減すれば、さらに雇用が冷え込むからだ。

 

 これもまた、軍事優先の経済政策という意味では、ある種の軍国だといえる。

 

 ソ連はソ連で、上記のように、戦争がさしせまりもしないのに、先走って、隣国の60%も上回るほどの軍事予算を投入していた。

 


 

 1934年7月

 

 汪兆銘の「日本敗北後でも、中国の亡国は必死」という観測を持たない蒋介石は、ソ連と秘密会談を開き、そこで、「日中紛争は、かならず、欧米の中国における権益を侵害する、」と述べて、何が何でも、欧米・ソ連の協調によって、日本を排撃するように、方向付けを迫る。

 


 

 しかも、蒋介石の考えは、平和のうちに、これを進めるというのではなく、むしろ、「紛争をして見せて」英米ソを動かす、という今の平和主義からすればとんでもない悪魔のような発想を持っていた。

 


 

 「上海・南京・武漢で戦闘を行い、列強の対日干渉を引き出す」・・・・つまり、この事実は、同じ頃、日本政府がソ連の軍事増強やアメリカの軍事産業擁護のための政策を見て、恐れて、親善外交を目指していたその時、蒋介石は、あからさまに「戦争策動」を意識していたということ以外のなにものでもない。

 


 

 蒋介石の1934年7月における構想は、「日中戦争をきっかけとする英米ソ参戦の世界戦争」だった。そして、日本は、ソ連の大兵力に恐懼して、国民経済再建のために綿輸出に注力していた。

 


 

 この時、毛沢東を含む中国共産党、地方に退却を余儀なくされていた。

 

 日本は、蒋介石の秘密会談における戦争の勧誘まがいの発言を知らずに、中国との友好を図って、義和団の乱以来の欧米各国および日本の駐屯軍を中国から削減しようじゃありませんかと重光葵が提案する状態だった。

 


 

 そして、日本も含めた列強の中国に対する不平等条約を是正しようとも提起した。

 


 

 だが、重光葵のこうした中国への友好配慮は、欧米の権益削減要求を含むことを皮肉にも意味するところとなっていた。

 


 

 同じかつての倭族の風下に立つよりは、文明国である欧米の風下に立つことをすでに決意した蒋介石。

 


 

 そして、ソ連の満州国境への軍備大増強を見たあとに、関東軍はソ連の侵攻があればひとたまりもない、と警戒感を強めて、満州に飛行場を建設して備えようとする。

 


 

 これらは、戦後、「ソ連は労働者のための良心的な国」と信じた日本のマルクス主義系学者、文化人によって、逆立ちに解釈されて、日本が軍国主義だから、関東軍がどんどん兵力を増強したという説明になった。そして遡れば、満州地域とは、ロシアが清国領に侵入して制圧していた荒蕪の地で、日本がロシアを押し戻して、治安と道路、水利を開発してから、人口が増えたのだった。

 


 

 これを戦後教育は順序を逆に、もともと中国人がそこにおだやかに暮らしていたところに、日本が押しかけたようなイメージを作ったが、そうではなく、清国が放置して荒れ果てた地になっていたところを、ロシアが軍事占領し、日本が押し返して、町として再生したあとに、暮らしやすいとわかって、南の中国人が移入してきた。

 


 

 1935年、日本の外務省の重光葵は、北部支那は南京政府の植民地的搾取の被害者だ、とする見方を示しているが、戦後生まれの加藤陽子は、これはおかしいと批判している。しかし、重光葵の北部支那が植民地支配されている、というのは、現在の中華人民共和国に対するチベット、ウィグルの抵抗に同情するのと同じ考え方に基づくもので、まったく正当なものだった。

 

 

 

 なぜなら、光田剛「「白堅武日記」に見る九・一八事件」でもわかるように、白堅武のような、「北方民族意識」の自覚のもとに、五族懇話による満州建国に賛成する立場もあったからで、清国崩壊後、清国に包括されていた各民族は、漢民族に支配されることを嫌っていたという側面があった。それが、重光の植民地搾取の意味で、重光はごく普通の意味で独立を阻まれている人々を擁護していた。

 


 

 加藤陽子のようなリベラルな政治学者は、モンゴル人の大元帝国も、漢民族の大明国も、満州族の建国した大清国もみな、「中国」という前提で、その版図がそのまま次代の新国家の元からの領土であったかのように、錯覚してしまう。

 


 

 実際には、つねに離合集散をくりかえして、統一した「中国人」という意識は中華人民共和国にいたるまで、存在しなかった。だからこそ、現在中国共産党は、ありもしない民族名「中華民族」を連呼している。「中華語」という言語がないように、中華民族が元来ないにもかかわらず、中華民族といわざるをえないのは、そう言わないと、多様な民族が無理に束ねられていることがあからさまになるからだ。

 


 

 一方、1936年にはじめて、ソ連の指導により、中国共産党は、蒋介石と同盟を結んで、まず、日本を中国大陸から追放することを決意する。ソ連の指導とは、すなわち、ソ連にとって、中国大陸共産主義支配の目の上のたんこぶが日本だからで、(そのあとは、インド、アジア全域を共産主義化したい)

 

蒋介石と手を組んで、日本と戦えと指導したのも、まったく当然のことだった。

 


 

 蒋介石はソ連の支援は望みはするが、毛沢東の中国共産党の存在は、いつ自分が抹殺されるかわからない内敵だ。この蒋介石の警戒通り、事実毛沢東は蒋介石を殺そうとするが、周恩来が止めて、日本追放に向けて、蒋介石と手を組むことを選択する。ソ連もまた、毛沢東を叱責していた。なぜなら、蒋介石を活かして日本に共同で戦えば、ソ連のコストをかけずに、日本を追放できるが、蒋介石を殺せば、中国国内で内戦が激化するだけだから・・・。