1936年の三国志 | 気になる映画とドラマノート

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1936年5月15日、陸軍省は支那駐屯軍を1771名を5771名に増強すると発表する。理由は、邦人保護だった。これはまったく、至極当然で、これがもし、ソ連が、これより2年前に極東軍事力を大増強して、日本をはるかに、60%も上回る航空兵力を整備していなかったならば、日本側の一方てきな野心と言って、間違いないだろうが、そうではなく、ソ連は事実、そうした軍事上の増強をしていたので、準備して牽制するのは当然なのだが、加藤陽子は、「「対ソ戦の強化」が目的であることはいうまでもない、と書いている。(「満州事変から日中戦争へ」岩波新書204ページ

 


 

 それなら、加藤陽子は、ソ連が日本よりも先に軍備増強したことは、平和への努力不足だとか、中国大陸への野心とは考えず、ただ、日本だけがいつどのような状況で、軍備を増強させても、それはすべて平和を破棄する行為で、他国はなにをしても、何を言っても、無実だという感覚なのだろうか。

 


 

 加藤はわざわざ「邦人保護」が目的ではない、と強調するが、現にアメリカもソ連も、一般の民衆は保護しつつ戦争を行ったわけではなく、東京山手渋谷、青山といった住宅地にあえて空爆をしたし、ソ連は日本軍が降伏してもなお、満州居留民を保護するどころか、殺害した。

 


 

 こうした加藤陽子のような、本来自国の擁護のためにある他国の軍事行動への牽制(けんせい)行動が、あたかも、自発的な挑発だと考えるような異常内省は、戦後の反核運動に引き継がれる。

 


 

 ソ連が東ドイツ体制を擁護するために、西ドイツを圧迫する目的で核ミサイルを西ドイツに向けて配備したから、西ドイツがこれを無効化するために、アメリカに核配備を依頼すれば、まるでアメリカと西ドイツが核戦争を準備しているかのように考えて、先に配備したソ連の非は一切言わない。

 


 

 これと同じように、1936年の日本の軍備増強についても、ソ連が先に大増強したことは、さておいて、日本が軍備増強したことに注目して、「邦人保護ではない」という。

 


 

 だいいち、1936年の時点で日本の兵力は、事実上、ソ連の三分の一だった、と加藤陽子自身が書いているのだから、三分の一しかない日本が「戦争準備」のために、増強すると考えるほうがおかしい。三分の一の兵力しかない国は、「戦争準備」ではなく、「局地戦を持ちこたえて、邦人保護することがせいいっぱい」だ。

 


 

 加藤陽子は、206ページで、石原莞爾は、航空兵力の増強によって、ソ連の極東進出を断念させようとした、と書いている。

 


 

 断念させようとした、とは、まさに、勢力均衡による平和維持にほかならず、「戦争準備」ではありえない。これは多少とも、実相に近い説明なのだが、日本軍国主義憎しのあまりに、ついつい「邦人保護」が目的ではない、「戦争準備」が目的だと書いては、あまりにも明白な事実である防衛のための増強という説明に立ち戻っている。

 


 

 満州事変を構想した石原莞爾はこの時点で関東軍参謀から仙台の司令官を経て、この時、東京の陸軍参謀本部作戦課長になっていた。

 


 

 この間、状勢は変化して、ソ連の圧倒的な軍事増強がという現実が出現したために、石原莞爾は、仮に、そして万が一にも、日本が戦争になることがあっても、ソ連・アメリカ・中国・英国の順に危険要因があるが、けっして、複数同時に相手にしてはならない。その場合は、かならず大敗北する、と考えていた。

 


 

 この認識のもと、もっとも危険なソ連の攻撃を抑止して、平和を維持するために、中国と友好関係を結んで、日中で共同体制を図るべきだ、と考えた。

 


 

 だが、この日本側の考えを理解したのは、日本敗北後の中国はソ連に支配される亡国だ、と洞察する汪兆銘とその部下くらいのもので、蒋介石は、ソ連の世界共産主義の構想にまったく鈍感で、ソ連が日本を大陸から追い払ってくれればそれでいいのだ、というくらいの見通ししかもちあわせてはいなかった。

 


 

 1937年1月23日広田内閣が総辞職したことを受けて、宇垣一成に首相大命が降下するが、宇垣は組閣できずに、終わる。これは、大命を受けた人物が天皇の意思とは別な権力作用によって首相になれなかった実例であり、これでは、天皇大権も天皇主権も、有名無実だった、明らかな実例のひとつと言える。

 


 

 組閣さえできずに流れた宇垣内閣の実現は、林銑十郎内閣に被継がれた。

 


 

 林内閣は、イギリス関係の修復と中国との公正な関係を築こうという方針で、それ自体、どこにも軍国主義的色彩はない。

 


 

 しかも、陸軍が政府とは別に「国家社会主義思想」に基づいて出したパンフレット「国防の本義・・・」が、銀行の国有化論を言っていたにもかかわらず、政府はこれを採用せずに、各民間銀行の組織拡大を支援する方針を取ったのだから、経済自由主義的なものだった。

 


 

 むしろ左翼的な思想を汲む、「社会大衆党」は、軍部が国家社会主義方向の「銀行国有化論を引っ込めたのを見て、軍部を批判した。

 


 

 わたしは、日本軍国主義という規定自体、ウソだと考えるが、このように、むしろ、「国家社会主義」的な暴走を陸軍の中堅層がおもいついては、抑制するのを、むしろ、期待して、突き進むように、けしかけたのは、「社会大衆党」のような労働者の立場に立つ政党だった。

 


 

 日本側はあくまでも、ソ連の三分の一しか軍事力を持たないことから、戦争などは、机上の想定にしか過ぎず、現実にこちらから攻撃をしかけるなど考えられない状勢だった。しかし、蒋介石は、ソ連その他の欧米各国の援助を受けて日本を排除すれば、中国が、欧米の経済援助、を受けて発展するだろう、という考えしかなかった。その後、どうなったかは、歴史が証明するとおり、中国は一党独裁国家になり、餓死者400万人以上とも言われる未来が待っていた。

 


 

 蒋介石はドイツの軍事顧問団をいれて、中国軍を軍事訓練して、とりあえず、8万人の正規兵をつくりあげて、日本に攻撃を仕掛けて、大陸における日中紛争を起こして、ソ連・アメリカ・英国などの対日参戦を誘い込む作戦に出る。

 

 

 

 その時、日本の海軍特別陸戦隊5000人。対する中国軍は20万人。いかに、日本に戦争の準備と決意が薄いかがわかろう。

 


 

 少し変だと思わないだろうか。戦後、アメリカは民主主義国家で、平和の使徒として日本軍国主義を倒すために戦ったというイメージがあるが、それならば、人命が第一であることは言うまでもない。しかし、なぜ、歴史には、「アメリカが、日本対して、空爆で、貴国の罪もない民衆が生命を落とすのは、忍びないから、もし、貴国の軍隊の位置を政治制度上落として文民統制するという確約があれば、講和に応じるとか、なんとかという提案の一つもなかったのだろうか。

 


 

 これは、明らかに、アメリカに都合のよい貿易圏を確立したいという野心とソ連の共産主義国家群をつくってアメリカに対抗したい野心のぶつかり合いの結果、極東と東ヨーロッパにおいて、ソ連の思惑がうわまわったが、その後、冷戦にアメリカが勝利した、という意外のなにものでもない。軍事強国という意味では、日本の存在はこの二国の前にはつねにちっぽけなものでしかなかったが、戦後、ひたすら、社会主義に共鳴する勢力にとって、日本軍国主義を言い立てることが、現行の日米安保条約の否定に通じるから主張したにすぎず、また、アメリカからすれば、広島長崎や東京大阪への空爆の非人道性に直面したくないために、日本軍国主義の悪だった、と言い続けるしかない。

 


 

 このような情勢下で、ついに、ソ連共産党の指導を受けた中国共産党の謀略(歴史家の常識)により、日本軍に発砲されて紛争が再発する。

 


 

 火をつけたのは、共産党だったが、蒋介石もまた日中の紛争は、ソ連かアメリカの参戦のきっかけだから、望むところであるし、そのために、ドイツから訓練を受け、装備の支援も、秘密裏に受けていた。

 


 

 ドイツの武器輸出総量の実に57.5%が、中国軍向けだった。

 

 ※これで、猪木正道が言うように、人類の価値観が変わって、日本だけが平和意思がひくかった、のだろうか?

 

 加藤陽子は、212ページに、「ドイツ国防軍にならった中国軍は、上海の木更津航空隊三機を撃墜した」とたからかに書いているが、実際には、アメリカのジャーナリストが上海にいて、中国軍の戦闘機が、日本の戦闘機に撃たれて、基地まで戻るために、上海市内のホテルの上に、重い爆弾を捨てたために、被災者が多数出たことを記録している。

 


 

 これらは、すべて、当時の印象としては、日本軍の攻撃と、錯覚された。