1918年から20年(大正7年)にかけて、日本は日露戦争によって、ロシアの満州の権益を退けて、改めて清国から借款を協定した満州地域の開拓の権利を、間違いなく世界が承認しているかを再確認しておこう、という意識が産まれた。というのも、世界が承認していない状態で日本の投資を続ければ、やがてすべてを置いてもどらねばならない、「はしごを外される」状況になるからである。
日露戦争で英国、米国が貸し付けた戦費返済は、第一次世界大戦の各国の軍需需要が急伸して、日本の債務はなくなった。
第一次大戦後、すぐにアメリカのモルガン商会、イギリス、フランス、日本は、中華民国に対する金融ビジネスの利を中華民国への財政借款という形で見出した。
借款のアメリカ、イギリス、フランス、日本四カ国の共通ルールを作るための組織はニューヨークに置かれた。イギリスはアメリカが、英国の既得権益の地域、長江周辺まで入り込もうとしていることを見抜いて、すでに、借款交渉が始まっているものについては、協約から除外することをアメリカにのませた。
日本はこの交渉の余波のように、鉄道借款については、イギリス同様、共同借款協約から、除外されることになった。
こうして、大陸では、大陸をめぐる列強の国益をめぐる駆け引きが行われていた。
1928年パリ不戦条約(ケロッグ・ブリアン協定)
この時、アメリカのケロッグ国務長官は「攻撃または侵入に対して、その領土を防衛する自由はある」とした。
イギリスはエジプトとペルシャ湾が争乱に陥った場合は、英国の特別かつ切実な利害に関わるので、出動する場合がある、とした。
またフランスは、既に締結された諸条約が不当に破棄された場合も、自衛に含むとした。
日本は、イギリス・フランスの主張が自動的に適応されるこの条約に調印した。
※後に、戦後、防衛大学校長だった猪木正道教授は、この不戦条約が「人類の価値観の変化」だと言ったが、このようにまったく価値観の変更というものではなく、日本一国が平和に無理解だというわけではなかった。
また、アメリカの言い分、攻撃または侵入に対する抵抗以外は、自衛と認めないという論法を戦後日本人が両手をあげて認めることは、他国を攻撃してはいない段階の国を敵視して、鉄、石油の輸出を止め、その国(日本)製品をアメリカが輸入することを止めて、(業者の損失は国が補償する)兵糧攻めにすることも、いいんだ、と言っていることを意味する。
1930年5月
中原大戦と呼ばれる大陸内内戦が怒る。
日本では、陸軍省が、1931年7月陸軍刑法103条「軍人の演説の禁止条項」を「事実の解説ならば、違法ではない」と通牒して、全国に陸軍少佐を送り、「国防思想普及運動」を行った。内容は「滿蒙における日本の権益の説明」
当時日本国内は小作人の小作料減免要求と地主の小作料滞納一掃要求が対立していた。この打開策と関連つけて、満州権益の重要性が解説された。
それらの講演は、主に参謀本部情報部長が在郷軍人会に講演すると、これが部内雑誌に掲載され、その講演内容を基本にして各地における講演にされるという具合だった。
参謀本部第二部長、建川義次は、「1917年の石井ランシング協定でアメリカでさえ、満州の権益は正当と認めた。」と言った。※「合衆国政府は、日本国が支那において
特殊の利益を持つことを承認する。とくに日本の所領に接する地方(満州)では、とくにそうである。」と、ランシングは書くととともに、「しかし、あくまでも、支那の主権はあるし、その他の国の通商を日本は妨害する権利はない」と書いた。
このランシングの主張は、満州の優先的権益を日本に認めているようでもあり、優先権はあるが、他国の通商も容認せよ、と言っているようにもとれる、故意にあいまいに書いたものだった。
石井ランシング協定のランシングの覚書の曖昧さに不安を覚えた日本は、ウォール街のポール・ラモントと日本の銀行団の往復書簡によって、滿蒙権益の具体的内容をつめて行く。これで、はじめて、内蒙古については、放棄して、南満州については、アメリカも承認するということになった。
(1920年5月11日)
1931年7月
蒋介石国民党軍30万、汪兆銘国民党、中国共産党の三派内戦
瀋陽には、張学良の軍11万5千。長城以南の華北では、石友三が軍を率いて反乱。石友三軍は、日本に買収して反乱したと加藤陽子は言うが、そもそも他国に買収された誰かが軍を率いて動くほど、統一がなかった状態を示す。
1931年9月 柳条湖 満州事変 この時関東軍1万400名に対し、張学良の軍は19万人(そのうち、11万人がこの時、華北へ)
1932年 3月 リットン調査団 来日
「条約により日本に認められた権利を尊重しない支那」
大阪商業会議所
リットン調査団はこれを日本の言い分と記録
加藤陽子は「満州事変から日中戦争へ」(岩波新書)で満州を次のように説明している。
「満州とは、民族名と国家名であったマンジュに漢字をあてたもの」であり、「そこに住む当事者にとっては、空間や地域名を現すものではなかった」と言っている。しかし、この説明はきわめて奇妙である。
「住む当事者にとって空間や地域名を現すものではない」というのは、前段でいう、民族と国家に居住範囲も国の空間的ひろがりもないことになってしまう。
たしかに、世界のどこの国も、自分の属する国の空間的範囲をはっきり認識している人は外交官でもない限り、まず皆無だという事実では、
「そこに住む当事者にとっては、空間や地域名を現すものではなかった」というのは、正しい。しかし、加藤陽子のいうように、当事者にとって意識がないからといって、欧米や日本が清国の東北部に勝手に満州と名付けたというのは、屁理屈だ。もともと、満州の地域に、後金国があり、そこから拡大して、清国を建国したのだから、満州とは、かつての後金国(すなわち康熙帝の先祖の地)と重なることになる。
加藤陽子は、同書20ページで、「清朝体制下の東三省成立とともに、ヨーロッパ人と日本人によって満州と呼ばれたのである。」とまるで、清朝皇帝の祖先ヌルハチがどこで国を建国したかが歴史になくて、いきなり日本が清国一地域である東北部に満州と勝手に名前を付けたように行っている。
これは、朝鮮族が主として、朝鮮半島に、満州族が半島の北部から内モンゴルのあいだにいたように、民族の位置関係に由来するのであって、日本人や欧米各国が、かってにつけたわけではない。
加藤陽子も実は、民族名と地名と言っている以上、知っているのだが、わざと
「清朝体制下の東三省成立とともに、ヨーロッパ人と日本人によって満州と呼ばれた」と実態の区分けがないところを無理に区分けしたように印象つけている。
この文章を書いていたところ、テレビ東京の「なぜそこに日本人」でインドネシアの独立戦争で対オランダの戦争に参加した94歳の日本人のご老人がインドネシアで孫に囲まれて出演していた。
その時、テレビ東京は「日本軍のインドネシア侵攻」・・・つまり、侵略・攻撃と字幕をいれていたが、そこは、オランダ領だったのである。攻撃したのは、オランダの基地であり、オランダ領であるインドネシアを占領して、インドネシアの独立を支援するか、強圧的に支配するかどうかは、まだ不確定だった。
真珠湾攻撃を人は「侵攻」とは言わない。ただ、攻撃という。が、東南アジアになると、そこは、アメリカのクラーク基地であり、インドネシアのオランダの基地でああったのに、「侵攻」と言う日本人の癖がついている。
オランダの基地への攻撃とは決して言わないというところに、日本人のいまだ解けない催眠状態が示されている。
中国も、北朝鮮も、日本民衆を米帝国主義から解放する、と言って、日本の米軍基地を攻撃するわけで、その時、「米軍基地反対派」は、米軍がいるからこんなことになった、というだろう。
それならば、日本が、インドネシヤのオランダ基地を攻撃したり、フィリピンのクラーク基地を攻撃したことも、アメリカやオランダが悪いことになる。それはそうだろう。日米英オランダ戦争なのだから、オランダやアメリカに関係のないところに攻撃に行く馬鹿はない。
しかし、変なのは、日本が攻撃すれば、日本が「インドネシアを侵攻」したことになり、中国や北朝鮮が日本の米軍基地を攻撃すれば、日本に米軍がいたからだという、この奇妙な転倒が米軍基地反対派にはある。
私がなぜ、日本のインドネシアのオランダ基地への攻撃は当然で、日本の米軍基地もよいというのかと言えば、日本が、憲法9条で満足な防衛体制が取れない条件下で、中国、北朝鮮が攻撃ミサイルを充実させようという以上、米軍に条約によって駐留させて、防衛する必要があるからで、これは日米の一種の取引なのだ。ところが、インドネシアも、フィリピンも、当時対等に条約によって、米軍基地なり、オランダ基地があったわけではなく、まさに、保護領であり、領土だったのである。