軍国日本の興亡 | 気になる映画とドラマノート

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 軍国主義はヨーロッパで、1860年代にプロイセンで産まれた概念で「軍備拡充」の批判のために使われた。そういう意味では、世界に軍事基地を置くアメリカ、かつてのソ連、核を配備する中国、徴兵制を持つ北朝鮮、韓国も戦前戦中の日本を軍国主義だと言ったとたん現在のこれらの国は軍国主義だということになる。

 


 

 冗談ではなく、他国からの侵略を武力で防御するという理念を放棄しないかぎり、軍国主義という疑いを払拭することは不可能なのだ。

 


 

 そう認めないということは、ただ日本だけが性質凶暴であるために、軍備拡充は侵略であり、他国は武力を持っても、防衛だといっていることになる。

 


 

 故猪木正道氏は「軍国主義日本の興亡」中公新書 で、戦前戦中の日本軍国主義は「一国主義」だったという見方をしているが、まったく軽率な見方だ。あの時代に数々の失策があったとしても、少なくとも「一国主義」だったことは日本にはない。「鹿鳴館時代」にはじまり、日英同盟、日露関係におけるアメリカの講和仲介、清国義和団の乱における日本がおこなった欧米公使救出、そして第一次世界大戦後の講和会議では、「連合国と共通の利害関係のある問題に関しては協調すること」と牧野全権に方針がつたえられたのであり、

 


 

日中、日米戦争時は日独伊三国の同盟など、日本は外国との同盟を考えない単独主義を貫いたことは、ないと言ってもいいくらいだった。

 


 

 それに比べると、アメリカは、日本が加盟していた国際連盟に加盟していなかったくらいで、そうなると、はたして、猪木正道が言った「一国主義」とはなんのことを言ったのか、さっぱりわからないのである。

 


 

この本のまえがきに猪木正道は軍事的価値が過大評価も過小評価もされなくなり、妥当に評価されるまで、軍国主義を克服したと言えないと書いているが、なんとも調子のいい言い方ではないか。

 


 

 軍事的価値が妥当に適切に評価される状態とはどういうものかを猪木正道はいっさい語っていない。そして一方では、日本は、憲法9条を文字とおり実行すれば武力完全ゼロを主張するしかない立場の人々は大勢いるというわけなのだ。

 


 

 猪木正道は「自国をみずから防衛することによって、国際社会の平和と安全に責任を果たす」べきだと言いながら、国連のPKF活動を免れるのはよくない、と書く。「自国の防衛」といいながら、「国連のPKFが大事」というのだから、おそろしく矛盾している。

 


 

 だいいち、軍国主義とは、軍事の増大なのだから、「自国の防衛 」は、他国の軍事増大に連れて、自国も増大することになり、「自国の防衛 」を認めたとたん、軍国主義なのか、「妥当な防衛」なのか、判断しなければならなくなる。

 


 

 現在の中国の軍事力は日本よりも上であることは、誰でも知っているが、軍事力の妥当性が「防衛のため」と言えるのは、一番わかりやすいのは、他国よりも攻撃力が低い、ということでもよいことになる。

 


 

 そうなると、日本は戦前戦中に、当時の列強に比べて軍事力が上だったのかとうと、そうでもないのだから、話がややこしくなるのだ。

 


 

 経済力に比べて大きな軍事力を持っていることが軍国主義ならば、韓国も北朝鮮、パキスタンは軍国主義国だろうし、イラクは米ソ中どこよりも、小さな武力で、財力では、ムリな武力とは言えなかったから、軍国主義とは言えない。

 


 

 では、弱小国に進出したかしないかで言えば、当時、アメリカはフィリピンを軍事占領していたし、防衛以上の軍事力を持っていた。

 


 

 猪木正道も含めて、過去の日本を軍国主義という人々は、日本は軍国主義、ドイツはそれ以上に悪質な軍国主義というのが、つねなのだが、イタリアの全体主義も軍国主義なのだとすると、イタリア、ドイツは他国に広範囲に軍事基地を配備していない時に、フランス、アメリカ、オランダ、英国、アメリカは東南アジア、太平洋の島々、南米、アフリカに属領と軍事基地を持っていたのだから、世界は軍国主義だらけだとみるしかない。

 


 

 猪木正道は日米戦争が日米交渉8ヶ月の後に開戦されたから、東アジアの欧米支配の解放という目的はなかった、という。

 

 

 

 しかし、そんなことはない。日本が英米の石油と鉄の輸入禁止措置をされて、対米英開戦を決意した時点で、米英を攻撃するとは、当然、日本の近くの米英の基地を攻撃する事を意味する。それは、当然、英国、オランダ、アメリカ各国からの現地住民の独立支援も意味してくることになる。

 


 

 正確には、欧米からのアジア諸地域の植民地支配(合邦ではなく)を解放するべきだ、と言っていたのは、大川周明らであり、日本政府首脳はそれは日本に目的にはならないと考えていた。軍のトップも、政府と同じであったが、軍の課長、現地司令官レベルでは、満州地域の確保が大目的であり、日本は四つの見方があったが、ここに、朝日新聞尾崎秀実の「戦争をさせて破滅させてから社会主義にしたい」という意思が加わり、日中状勢を悪化させて、欧米の日本に対する経済制裁が強まった。日本政府が開戦を決意したとき、国民への説明のひとつに、大川周明らの欧米のアジア支配からアジアの人々を解放するという意味もある、ということに、思い当たったろう。

 


 

 そんなのは、現在でも、本音と建前があり、日米戦争の本音とは、アメリカと早期講和して、やってみたがダメだったと主戦派を説得しつつアメリカの属国になることによって、共産主義化を防ぎ、あらためて、自由主義国家圏に属して再出発することだった。そのためにも、勝てないまでも、当面は奮起するために、アジアの解放という正義が必要だった。

 


 

 もちろん結局は勝てはしないし、アジアの欧米支配も終わらないだろう。

 


 

 しかし、事態は、意外なことに、アメリカはまったく途中講和の意思がそぶりにも、なかった。これが第一の誤算。

 


 

 第二の誤算は中国共産党が勝利し、北朝鮮、ベトナムに共産党政権が生まれることをアメリカも日本も予想しなかった。

 


 

 また、日本が負ければ、当然、欧米の東南アジア支配は続くだろうと思っていたら、東南アジアの人々は予想以上に、日本の戦中の助力(軍事指導)を活かして、イノチガケで独立を勝ち取った。

 


 

 つまり、開戦当時、日本政府の中に密かにありえた、まっとうな状勢認識としては、貿易を停止させられてにっちもさっちもいかず、かといって、軍部の(トップではなく「参謀、課長クラス」を抑えられない以上、唯一の手段は、日露戦争における敗戦国ロシアのように、今度は日本が、敗けてすぐ、交渉して大きく譲歩してでも、とにかく再出発することが、理路だった。

 


 

 が、現実に起こったことは、アメリカの思惑は、日本を完全に四流、五流国にして、二度と欧米のアジア支配に口をだしたり、国連で人種差別撤廃を言わないようにさせてることはもちろん、東南アジアの諸国が日本を頼ったりしないように、する事だった。そのために、ダメおしのように、原爆が落とされた。

 


 

 英米にとっての誤算は、固いきづなのはずのソ連があっというまに、米国の意向を無視して、東欧、アジアを共産化したこと。アジアの諸国が日本の残した抵抗精神を胸に、英米フランスに独立を敢然と要求し始めたことだった。

 


 

日本が当初、アジアに行ったのは、確かに植民地解放が目的でもないし、アジアを攻撃しようとしたわけでもない。英米オランダとたたかったのだから、日本の近くの英米オランダの基地を攻撃しに行ったのが、直接の目的だ。そこに、基地があるのに、わざわざ、イギリスやオランダ、アメリカ本土に行って、近くの基地から攻撃されたら、バカを通り越してキチガイである。

 


 

 ところが、戦後、日本の左翼や中国、韓国は、日本はアジアを支配するためにアジアを占領した、と言っている。それは、欧米の基地を解体して、作らせない目的で占領したし、長い欧米支配で欧米と利益を同じくする地元有力者の攻撃を防ぐために、制圧したのであって、植民地化が目的ではなかった。要するに、本音ではアメリカと講和してひきあげるならひきあげてもよかったのである。

 


 

 このように考えないと、まるで日本は日本人を犠牲にしてまで、他国の欧米支配を解放しようとした狂人スレスレの正義の塊か、何倍もの国力のある英米オランダの連合軍に完全勝利して、その後の欧米の抵抗も排除しながら、アジア各国を独立させてあげられることが本気でできると考えていたことになる。

 


 

 現に日本が敗戦しても、東南アジア各国は甚だしい、絶対的貧困が50年たっても、60年経っても続いている。軍国主義を倒した英米が独立させ、面倒を見てあげても、そうなのである。日本がアジアを幸せにできたはずがない。

 


 

 仮に日本が欧米に代わって東アジアを応援していた日には、日本人が悪辣だから、このように貧困なのだ、と現在のアジアの貧困を日本のせいにしたろう。

 


 


 

 交戦国の基地がすぐ近くにあるのに、遠くの基地に攻撃に行くバカはいない。日本がフィリピンに行ったのは、フィリピンを攻撃しようというよりも、アメリカの基地を攻撃しに行ったのである。もちろん、開戦前にインドネシアに行ったのは、英米の貿易制裁がきつくなったから、フランスとの交渉の上で、行ったことになる。

 


 

 ほんとうはそうすべきではなく、アメリカに満州共同経営を申し込めばよかったのだが、そこを間違えたわけだ。

 


 

 当時の新聞は朝日新聞をはじめ、いっせに戦争を推進する論理を展開したが、最初政府は統制して戦争するように、書かせたわけでなく、満州事変当初は、新聞のほうが、戦争回避する政府を妨害して、軍中間層と世論を、戦争に誘導した。

 

その結果、政府、外務省、軍トップは世論と政党、軍中間層につきあげられて政策を泥沼化させて行く。そして、ついには、陸軍出身者を総理大臣に据えたあとは、新聞の社説も、軍の青年将校も、やはり間違いだった、もう講和だ、と考えても、発表できるような空気がなくなっていた。

 


 

 あとは、アメリカのほうから、講和を言い出してもらうしか選択枝がないのが、日本の現実だったが、それは日本がもはや破滅のふちに立った時点で、講和の条件が提示された。

 


 

 では、なぜ日清戦争、日露戦争は早期講和が可能な戦争だったのだろうか。皮肉なことに、ロシアも、清国も民主主義国ではなく、トップの判断を批判する勢力が存在せず、敗色濃厚だから、もうやめようと、トップが決断して相手国に申入れた時点で戦争は終わる可能性があった。少なくとも日本が清国やロシアを壊滅させるのではなく、交渉に応じる気さえあれば。同時に、トップが戦争をさけようという気持ちがあるのに、戦争せよとせまるマスコミも、中間層軍人もいなかった。

 


 

 ところが、日本は、民主主義と言論の自由があったために、政府、外務省、軍トップは戦争を避ける戦術をことごとく新聞、学者、青年将校らに批判され、修正を迫られた。

 


 

 これもまた、日本の国柄、日本の政治家の弱さで、アメリカのルーズベルトは、選挙民に向かって「皆様の息子さんをけっして戦場には送りません」と選挙公約しながら、新聞、一般世論をたくみにだまして、戦争やむなし、と意見を代えさせて、変わったその世論の後押しを受けて、戦時総動員体制をつくりあげた。

 


 

 しかし、日本の政治家、軍部のトップは、新聞の「戦争をして日本が破滅して社会主義になってしまえばいい」という思惑に発する世論誘導から始まる軍の青年将校や政党のつきあげをだましたり、強圧でおさえて、平和を主張する記事以外、まかりならぬ、戦争を回避する戦略を邪魔立てする参謀は徹底的に解雇するという冷酷さもなかった。

 


 

 また、天皇はもともと、絶対君主ではないがゆえに、世界と協調せよ、もうしつけたではないか、と次々に戦争回避の政策をしないトップをはずすことができなかった。

 


 

 これに対して、朝日、岩波系学者文化人、福島瑞穂、菅直人、香山リカ、姜 尚中、辻本清美のような善意にあふれた人々は、日本と戦ったアメリカ、中国、ソ連は善意にあふれ、大きな犠牲をはらって、日本軍国主義から日本民衆を解放したと言う立場にたち、彼らはやがて、ソ連の五カ年計画の成功、宇宙飛行の成功を見るにつけ、アメリカは朝鮮戦争、ベトナム戦争はしてもソ連は戦争しないいい国であり、ソ連はかつての欧米のように植民地支配もしなかったから、いい国だ。東欧の共産国はあれは自主的な選択なのだ、と。戦争をするアメリカを憎み、ソ連、中国に共感した。そして、アメリカよ、軍事基地などやめて出て行け、ソ連、中国は侵略されたことはあっても、侵略しない国だし、万が一(ありえぬ事だが、ソ連が侵略しても、抵抗は相手と我が方の被害が増えるだけだから、支配されたっていいではないか)それが護憲であり、平和中立だと言った。

 


 

 だから、彼らは、アメリカ軍事同盟を結ぶ韓国も日本政府も敵と思い、北朝鮮を地上の楽園、中国の政治家は大人(たいじん)で、民衆は善意にあふれている。北朝鮮は地上の楽園だから北に帰国したほうがいい、と言い続けた。

 


 

 その後、ソ連、中国、北朝鮮は民衆弾圧国家で、軍事もあれよあれよと増強。テロはする、拉致はする。収容所に政府に反抗する人を入れる。それが社会主義国の正体だとわかってきた。

 


 

民衆の飢えと激しい格差の国だとわかってくるにつれ、辻本清美は、そんなの知ってたよ、あたりまえじゃん、でも、仲良くしなくちゃ、という顔をしている。

 


 

 天皇が日本の政府と軍に世界征服を命令し、政府と軍のトップがいやがる新聞、民間団体を統制し、脅しつけて、青年をだまして天皇は神だと信じ込ませてお国のために死ぬように仕向けたと、語りつづけている。