倉沢愛子 神風特攻隊とアルカーイダ | 気になる映画とドラマノート

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倉沢愛子「大東亜」戦争を知っていますか 講談社現代新書2002年刊行

この本は、一般向けの読みやすい新書本で、中学生から大学生、一般のサラリーマンまで、手軽に大東亜戦争を概観できる本として、ほとんど全国の書店にいつでも手にとることができる形でならべられていると思う。

この本に、とんでもないウソがまことしやかに書かれている。
この倉沢愛子をはじめ、福島瑞穂や辻本清美、姜 尚中なんてのは、国民にウソを流し続けるという意味では、オウム真理教の幹部が、国会議員や大学の先生になって、ウソデタラメを教えているのとなんの変わりも無い。

194ページ「大東亜の学徒なり」という章で倉沢愛子は、こう書いている。

ロミは(倉沢の実の娘)戦争中、日本に神風特攻隊というのがあって、敵の戦艦に体当たりしたのは聞いているでしょう?アルカイーダの自爆テロがあった時、それと特攻隊の類似性を指摘する人がいたよね。」というのだ。

 倉沢は、特攻隊はあくまで、戦艦に体当たりしたので、民間人のいるビルに体当たりしたのではないことは隠して、あたかも同じような印象をあたえる。また、そう勘違いしてもいいという姿勢で書く。

 国の命令で戦地に行く事自体がどこの国であろうと、、個人にとって死を覚悟しなければならないことであり、そういう意味では、日本だけが国家悪として突出していることにはならない。

 神風特攻隊をさせた日本軍指令部が極悪なら、アメリカの指令部が数十万の民間人を殺害することを意味する原爆投下を一兵士に命じることも、同じく非人道的だろう。が、倉沢は、けっして、そうは書かず、むしろ、神風特攻隊兵士の頭が、アルカイーダのように、変だったから特攻したかのように書く。

 特攻隊とは、兵士の痛切な勇敢と自己犠牲であり、命令する側の卑劣非道と解すべきものを、倉沢の解釈では、特攻隊兵士がなにやら、天皇陛下にかぶれた狂気にかられて特攻したように、見えているのだ。

 倉沢愛子からロミちゃんへ
 神風特攻隊の起きた理由

 「戦争中の日本では、ほとんどすべての国民が、天皇は神であり、大和民族はそれがゆえに世界の頂点に立ちうる優秀な民族であると信じていたの。そして天皇が進める戦の中で、お国のために命を捨てることは、崇高なことであると信じていたのよ。だから特攻の人たちもも、皆自分から志願したのよ。」

 倉沢愛子は、せめて、自分の娘ロミちゃんや、同じ年頃の子に教える時くらいは、本当のことを教えようというわずかな倫理も持たない。

たった、この三行の文だけでも、ウソだらけである。
加藤秀俊「日本の中のアメリカ文化」

アメリカのユニバーサル映画が日本支社を設立した大正五年以降のことである。そして、明治三十年生まれの筈見が小学生のころ、一枚一五銭で買いあさった大 正期のプロマイドをかざる女優たちはフランシス・フォード、グレース・キュナード、パール・ホワイトなど。映画少年だった筈見は、とくに「名金」という三 六巻の連続映画のファンで、キュナードのプロマイドやスチール写真をせっせと蒐集し、それはかれの人生の伴侶となった。
 これらハリウッド女優がどれだけ日本人を魅了したかは、すでに大正七年九月に第一新聞が俳優人気投票をしていたことからもわかる。その記録とみると、第 一位はメリー・マクラレン、第二位はドロシー・フィリップ、第三位がルス・クリフォードと、以下一〇人がずらりとならんでいる。昭和五年生まれのわたしな ど、こんな名前をきいてもさっぱり見当がつかないが、大正年間にアメリカの映画スターは日本のアイドルになっていたのである。
 もとより、こんなふうに最新のハリウッド映画に耽溺しつづけることができたのは東京の、しかも盛り場に出入りすることのおおかった少数の若者たちである にすぎず、日本ぜんたいをみれば、アメリカ映画などというものはそんなに身近な存在ではなかっただろう。しかし、念のため、「地方からの視点」という副題 のついた熊本大学の映画文化史講座をひもといてみると、現代映画のあけぼのを告げた「カリガリ博士」が横浜オデオン座で初公開されたのは大正十年四月。そ して、このおなじ映画は翌年六月には熊本の肥後相撲館という劇場で上映されていたというから、一年の落差はあるもの、外国映画は大正末期には全国の主要地 方都市にひととおりゆきわたっていた、とみてよい。ついでながら、熊本大学の前身、旧制五高に「映画同好会」がつくられたのは昭和四年のことであった。
 べつだん、日本映画史をここで復習しようとはおもわないが、大正から昭和初期にかけての一五年間ほどは映画の全盛期であり、そのなかでもアメリカ映画が 確実に日本の大衆文化のなかに根をおろした時期であった、といってもよい。とりわけ、昭和四年五月に初のトーキー映画としてフォックス社の「進軍」が東京 武蔵野館で上映され、無声映画の時代がおわると、映画をつうじての「アメリカ」がひたひたと日本におしよせてきた。
 じじつ、田中純一郎の『日本映画発達史』によれば、昭和四年十二月にはダグラス・フェアバンクスとメリー・ピックフォードが来日して大歓迎をうけ、あと でみるように、かれらは”ダグ”と”メリー”という愛称で日本じゅうの人気者になった。昭和七年になるとチャーリー・チャップリンが神戸着の客船で日本に やってきた。サイレント時代の人気スターであったチャップリンにたいする日本人の熱狂ぶりはどうやら常軌を逸したものであったらしく、かれが乗った列車が 神戸から到着したとき、東京駅には一万人をこえるファンが殺到し、チャップリンは四百人の警官にまもられてやっと帝国ホテルにたどりついた。その当日の新 聞は一面トップに大活字で「ようこそ!チャップリン」「映画王もみくちゃ」と見出しをかかげた。
 この当時になると、アメリカの映画スターは日本の都市中産階級にとって、きわめて身近な存在になっていた。古川緑波が昭和五年に採録した銀座街頭での会話にはこうある。

 「ちょっと、ちょっと御覧なさいよ。リチャード・アレンに似てるわ、あの人。」 「ほんとに!素敵。あら不二家へ入ったわ、G(あたし妾達も入りましょうよ。」

 もとより、これは東京都心の一風景であるにすぎず、これが当時の日本の世相を代表するものとはいいがたい。わたしはさきほど熊本の事例をひきあいにだし たが、こんな会話が熊本や仙台でも耳にされたとはおもわない。ましてや、この時期は全国的な農村不況で、日本の人口の過半数をしめる農民にとっては映画ど ころではなかった。アメリカ映画への異常な熱狂は大都市中心部の局地的な現象であった、とみるべきなのかもしれぬ。
 しかし、チャップリン来日の記事をのせた新聞は全国にゆきわたった。緑波のえがいた銀座風景は「婦人画報」に掲載された文章だったから、日本各地のイン テリ婦人がそれをよんだ。直接にフェアバンクスの映画もみたひとはすくなかったかもしれないが、フェアバンクスという名前とその評判はかなりおおくの日本 人が知っていたにちがいない。いや、昭和十年の統計をみると、そのころ日本には合計一八〇〇ほどの映画館がつくられていたから、映画というあたらしい大衆 芸術はひろく全国民のものとなり、そこで上映される作品の大部分が松竹や日活の製作していた邦画であったとしても、アメリカの活劇映画や喜劇映画はかなり の数の観客をあつめていた、とみるべきであろう。
 こころみに、当時の人気映画をしらべてみると、昭和七年にはグレタ・ガルボの「マタ・ハリ」、ワイズ・ミューラーの「ターザン」、昭和八年にはゲー リー・クーパーの「武器よさらば」、そしてトリック映画の傑作「キング・コング」などが続々と封切られて劇場は超満員になった。クラーク・ゲーブルの「或 る夜の出来事」、キャサリン・ヘップバーンの「若草物語」はいずれも昭和九年に上映されている。このへんになると、わたしの世代の人間にも題名やスターの 名前がぐんと身近になってくる。それほどにハリウッドの風は日本列島のうえをそよぎはじめていたのであった。
 昭和九年といえば、わたしが四才のころだったが、ターザンがツルにぶらさがって樹木のあいだや谷間を自由自在にわたる情景だの、キング・コングがエンパ イヤ・ステート・ビルのそばに出現するカットなどは、いまも鮮明におぼえている。ましてや子ども用のマンガ映画「ポパイ」だの、「ベティちゃん」だのは、 幼児期から少年期にかけてのわすれることのできない主人公たちであった。

これで、どうして、戦前に日本人が、天皇は神そのもだと思い込んでいて、日本人が世界一になれるという妄想を持っていたなどといえるんだ?しかも、倉沢愛子は、わざわざ「日本人のほとんどが」そう思っていた、と書く。

以上のような暮らしをしていた人間がいきなり天皇が神そのものだなんて、変なくすりでも呑まない限り、ありえない。

特攻隊も応召、志願兵も、やむにやまれず、命を失うかもしれない場所に、家族や故郷の人々の暮らしが続くように願っていったのであって、「天皇神で、その天皇が進めるいくさだから、お国のために命を捨てることは崇高だと信じて」行ったわけがない。まずその前提には、アメリカの都市空爆という非道性があった。アメリカが講和を提案して、戦闘をやめて、貿易再開すれば、なんのことはない、戦争のあらゆる悲劇はなかった。

 むしろ、危険な場所に行く必要のない、送り出すぐ側には、そういう屁理屈と美化はあったろう。しかし、一般の国民が、そんな奇妙な考えを持っていたなんてことはない。

 倉沢愛子はこういう本で、日本の中学生、高校生、大学生にウソを吹き込んでいるのだから、背すじが寒くなる。


 倉沢愛子は、大正、昭和期の案外にノーテンキな「エログロナンセンス」や映画大衆演劇ブーム、アメリカジャズのブームは推し貸し手、あたかも、日本人が明治から昭和の戦争まで、一貫して「天皇と兵隊さんと戦争」のことしか頭にない天皇狂い軍国主義狂いだったようにイメージつくりをしている。

 なんのことはない、その時代はその時代で、民衆はゆるく気楽に、落語を聞きに行ったり、浪曲を聴きに行ったり、人情演劇を見たり、して天皇天皇と特段、思っていたわけではない側面もあったのだ。