フィリピンの歴史と日本 | 気になる映画とドラマノート

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フィリピンの歴史と日本

 1529年にスペインの探検隊が、フェリペ皇太子の名にちなんで、勝手に、無人島でもないのに、自分の国の皇太子の名前をつける。ジパングはまだしも、フェリペはないだろう。

 1529年と言えば、日本では1938年に足利尊氏の室町幕府の頃。

このころすでに、欧米キリスト教と政治支配が、東南アジアにせまっていた。

1543年には、ポルトガル人がはじめて種子島に漂着

この後、日本には、宣教師はくるようになったが、布教はしていない。

1549年になってはじめて、ザビエルが、布教を目的に来日。マルチンルターのプロテスタントによって失われたカトリックの復興を、インド、東南アジア、日本、南米、にもたらすためだった。
ザビエルの報告

そこで私は、今日まで自ら見聞し得たことと、他の者の仲介によって識ることのできた日本の事を、貴兄等に報告したい。先ず第一に、私たちが今まで の接触に依って識ることのできた限りに於いては、此の国民は、わたしが遭遇した国民の中では一番傑出している。私には、どの不信者国民も、日本人より優れ ている者は無いと考えられる。日本人は総体的に良い素質を有し、悪意が無く、交わって頗る感じが良い。彼らの名誉心は特別に強烈で、彼らにとって名誉が凡 てである。日本人は大抵貧乏である。しかし武士たると平民たるとを問わず、貧乏を恥辱だと思っている者は一人もいない。

 1584年には、本格的にスペイン、オランダ二国のフィリピン争奪戦、現地掃討戦などがはじまる。

 織田信長存命。羽柴秀吉と徳川家康が戦をしているような時代。

1592年の秀吉のインドを最終目的とする明国制圧のための、朝鮮半島出兵は、スペイン、オランダ、ポルトガル確固が東南アジア支配を始めていることを知った上で行われたが、このことは、大河ドラマではいっさい描かれない。ザビエル来日後、40年の事でもある。

 1622年。ふたたび、オランダ、フィリピン海戦。スペイン支配下の国内も、華僑の暴動が頻発している。

1745年には、スペインにかわって、イギリス軍がフィリピンを占領。この年日本は、、江戸の神田に天文台が設置されるなど。与謝蕪村や田沼意次が存命。

 フィリピンには、多数のスペイン人との混血の華僑や現地人が暮らしていた。

 イギリス軍のマニラ占領はしりぞけられ、ふたたび、スペイン領になる。

 1809年遠方スペイン議会にフィリピン代表参加制はじまる。

 1872年兵士・労働者の本格的暴動。

 1892年スペイン留学等大学教育を受けて、医師だったホセ・リサールは独立運動を結成して、逮捕流刑される。その間、ホセ・リサールは、明治21年の日本に2ヶ月滞在している。

 4年後、1896年に、日本海軍練習船金剛が、マニラに入港すると、ホセリサールの作った独立運動は、日本に支援を依頼。

 1896年ホセ・リサール、銃殺される。前後して、エミリオ・アギナルドが武装蜂起を指揮。

 1897年。アメリカとスペインの戦争、はじまる。

 エミリオ・アギナルドは、アメリカをスペイン解放軍と錯覚していたらしく、独立を宣言する。

1897年、フィリピン領有権はアメリカのものに。アメリカは、領有権はいらないから、貿易しましょうとはいわなかった。

 アメリカ大統領、「友愛的同化」方針発表。日本の朝鮮政策となにもちがわない。

 のちに、ルーズベルトは、朝鮮は奴隷状態と批難。

 1899年 エミリオアギナルド、アメリカに対して闘争開始。日本陸軍は、フィリピンに同情し、武器供与しようとするが、船は沈没。

 1900年対アメリカゲリラ戦争激化、アメリカ、しつこく残る。エミリオ・アギナルド逮捕されて、アメリカに忠誠を誓わされる。

 1903年官費米国留学生はじまり、帰国後、親米派官僚、経済人、増える。

米統治下国勢調査。韓国併合は、1910年なのだから、アメリカのほうが、よほど、本格的に弾圧して、フィリピンを制圧し、あとは、測量、国勢調査、学校など、ある程度日韓関係と似ている。

 官立フィリピン大学設置、マニラ鉄道開通。

恒常的に「自治化か独立方向か対米従属か」で、アメリカ政府と地元有力者の間でもめ続ける。

 1931年 フーバー大統領、フィリピン独立はさせないと発言。
この時、日本は、在満州の関東軍が満州事変を起こす。東南アジアに、ソ連コミンテルンの勢力が浸透しはじめる。

 反米闘争ゲリラふたたび起こる。独立させることによって、宥和して共産化を防ぐことを考慮し始めるアメリカ。

 フィリピン共産党を非合法と規定した上で、アメリカ上下両院独立法可決。
フィリピン側では、独立して国内共産党勢力を抑える自信がなく、アメリカの財政支援減少に不安を感じて、独立反対と独立を望む声の二派に別れた。

 アメリカとしては、戦後の対日、対韓方式のソフトな独立と米軍駐留しての、新米政権樹立転換政策だった。

 独立後であっても、ルーズベルト命令により、強権で、米軍がフィリピンをシキ命令かに置いた。これは現在の韓国軍が、最高指揮権を米軍に預けているのと似通っている。

 1941年。日本軍リンガエン湾に上陸。

日本軍クラーク空軍基地を空爆。

1942年、フィリピンは、ルーズベルトに実質的独立を要請。目的は、日本とアメリカの中立を確保して、平和を求めるためだったが、アメリカは拒否。

 1942年在米軍、日本に降伏と同時に、フィリピン共和国独立宣言。これで対米独立が実現したものの、日本の協力要請を受けて、日本が勝てばよし、日本が負ければ、戦後処理において、フィリピンの立場がわるくなるので、フィリピン指導層は混迷する。

 1944年日本軍降伏、米軍は親日協力派を粛清。結局、1931年の半属国、宥和同化状態に戻る。

軍事基地協定を結んだ上で、総選挙実施。

1960年 アイゼンハワー訪問。

1964年クラーク空軍基地でフィリピン人射殺事件。日本は東京オリンピック。

1965年後の独裁者、マルコス大統領当選 訪米して、米軍軍事駐留長期化を確約。

1968年アジア圏で毛沢東主義の肯定的見方強まる。

1972年からマルコス大統領の戒厳令政治。1980年再選。
1986年 マルコス追放

 要するに、日本軍国主義の野望を正義の英米民主主義国がはばんだのではなく、自国の都合のよい国を作るための国取り合戦を、共産党、強国欧米、が行い、そのなかでも、日本は少なくとも江戸期まではやる気になればやれたが、そうはせず、他国に自分の防衛のための緩衝地域をつくりたいくらいの意識があった、というのが事実に即した見方だ。

 日本人は、世界史上、戦争をはじめたのは、日本だと漠然と考えているといわれても、反論できないほど、欧米がいつどこで戦争したかを知らず、日本さえ反省すれば、世界は平和になるくらいに、安保闘争の頃、世界をイメージしていた。