日本の戦争 4 | 気になる映画とドラマノート

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現代の中国において、日本よ中国から出ていけ、嫌いだから、という暴動が大盛り上がりに盛り上がったとしよう。その時、日本の企業が立てた工場、機械設備、設計図などはすべておいて、日本に帰国せざるを得まい。究極的には、そういうことになる。

 


 

 じつは、満州もまた、なんのことはない。その実態は、日本の開拓農民とその居留民向けの商店、病院、子供の学校であり、共存する満州人、モンゴル人などの共存地域だった、この町を、馬賊、強盗などから守って、治安を維持する能力が、中国になかったために、日本軍が駐留していた。

 


 

 これが、現代では、順序が逆に解釈されて、軍隊が行って、中国の人々を強圧的に支配したようなイメージになっている。

 


 

 さかのぼれば、清国に比して圧倒的な武力を持つロシアが、それ以上清国に侵入しないように、あえて譲歩してロシアに清国は満州地域の利用権を承認した。それは同時に、その地域の人々にとって、清国よりも進んだ地域の人々の開発の手が入ることによる商業的活性化につながることでもあった。

 


 

 ロシアにとっては、満州沿岸の軍港確保は、日本海内海を回って東南アジアに渡り、ひいては日本を威嚇しつつ日本に有利な貿易条件を突きつけうる条件でもあったことが、日本との対立につながる。

 


 

 当時、ロシアのほうが日本に対して圧倒的に優位だったが、ロシア革命の機運が高まるロシア国内の混乱と、日本側に英国と米国が将来の中国進出を目途にロシアの満州独占よりも、日本にロシアを掣肘させて、弱小国日本に言うことを聞かせて、アメリカが満州を日本を抱き込みつつ満州に乗り込もうというもくろみものもと、日本に資金援助した。

 

 ところが、日本が勝ってみると、日本はアメリカの満州共同経営拒んで、単独で、ロシアの権益を譲り受けた上で、その承認を清国にとりつけたので、アメリカは、日本に対する敵視政策に転換して、以後、排日移民法をアメリカ国内に成立させて、中国人はよくても、日本人の移民はゆるさぬ、という方向に突き進むことになる。

 


 

 こうした対日観は、アメリカの指導層をアメリカ国民に対して、「わたしは、あのような第一次世界大戦のような民衆の苦難を国民にさせることを憎み、けっしてけっして皆様の息子様を戦地に送ることはいたしません」ということにより、大統領職についたことと、戦争をして、日本を徹底的につぶして、世界の四等国にしてしまって、二度と、満州にアメリカが入る余地はありません、などと言うなまいきなことを言わせないようにしたい。そのためには、アメリカ国民に、「戦争はしたくないのは、やまやまですが、日本という極東の軍国主義国家が世界征服をたくらんでいるので、民主主義を守るため、朝鮮のひとたちの奴隷状態を解放するために、卑劣な日本に戦線布告します」ということになったのだった。 


 

 そのために、日本に先に攻撃させなければならない。攻撃させるには、石油を止めて、日本をせっぱつまらせればよい、これが、アメリカの戦略だった。そしてアメリカは、同時に蒋介石に資金援助と軍事援助を与えた。一方ソ連は、日本がアメリカと戦争して、疲弊した状態で、日本国内に共産革命がおこって、ソ連の傘下になることを構想して、朝日新聞の敏腕記者で当時の最先端思想の科学的社会主義にかぶれた尾崎記者に命じて、大いに日本国民に中国をたたくことをたきつける記事を新聞に書かせて、アメリカ国民の憤激と中国への同情をあおって、日米戦争が両国のともだおれになることをソ連のスターリンは願った。

 


 

 この構想は、中国の共産党政権誕生によって、朝鮮戦争への中国人民解放軍参戦によって、アメリカは、この時、アメリカ国民の息子たちを3万4千人以上犠牲にした。

 


 

 また、ソ連、中国共産党の支援を受けたベトナム共産党の戦いを強いられたアメリカは、これによって、5万8千人のアメリカ国民の息子たちを犠牲者にすることになった。これは、実は日本が、ソ連共産党を警戒して、日独伊防共協定を結んだ時期もあり、「対共産主義の脅威」を意識して、このことで、アメリカに共鳴してもらおうという思惑を持ったにも関わらず、アメリカは、満州進出の夢と障害となる日本という観点に固執した。

 


 

これが、その後の共産主義のアジア、南米、東欧全域をソ連の傘下に入り、それがさらに拡大することを防ぐために、アメリカ国民を朝鮮戦争、ベトナム戦争という惨禍に送り込むはめになったのだった。