「クリスマス」はイエズスの誕生日ではない⁉
ましてやキリスト教の行事でもなかった⁉
実はクリスマスの歴史は、キリスト教以前の
異教徒時代にまで遡(さかのぼ)るのだ。
この日、人々は太陽神の復活を祈り
妖精たちは贈り物を持って現れるという。
森の妖精たちが集う「死と再生」の日
12月25日は、キリストの誕生日ではない⁉
日本人にとってもおなじみの行事「🎄クリスマス」
クリスマス=12月25日といえば、イエズス・キリストの誕生日。このことに疑問をもつ人は殆んどいない。
勿論、キリスト教会会では、この日に荘厳なミサが執り行なわれる。
日本ではクリスチャンでなくてもこの日ばかりは、「聖(きよ)しこの夜」を歌い、プレゼントを交換し、🍰ケーキを食べてお祝いしたりする。
ところが、クリスマスという祭典が、実際にはあの歴史上のイエズスの誕生日などではなく、それどころか本来はキリスト教のものですらなかった。ということはご存知だろうか?
実をいうと、イエズスの本当の誕生日は今なお不明なのである。
のみならず、12月25日がイエズスの誕生日と定められたのは、イエズスの死後300年もたってからなのだ。
つまりイエズスという人は、自分の誕生日でもなんでもない日に、本人のまったく与(あずか)り知らぬところで、なんの根拠もないまま、世界中でその生誕を「クリスマス」として祝われているわけである。
現在でこそ、個人の誕生日を祝うことはごく当たり前の習慣になっているが、少なくとも西暦紀元前後のヨーロッパでは、この習慣はさほど一般的なものではなかったようだ。
生涯に2000冊の本を著わしたといわれる、3世紀ギリシアのキリスト教の教父オリゲネスは、誕生日を祝うという行為自体をあからさまに攻撃している。
教父曰(い)わく
「聖書に於いて自分の誕生日を祝っているのはエジプトのファラオと暴君ヘロデのみであり、異教徒か神の敵しかやらない習慣だ」
というのである。
それにキリスト教の教義からすれば、イエズスの誕生日を祝う必然性はあまりない。
なぜなら、キリスト教に於いては、十字架上に於けるイエズスの「死と復活」こそが本義なのである。
いいかえれば、イエズスに於いて重要なのは、その誕生よりも、死と復活のほうだからだ。
Г新約聖書」の大部分を書いたパウになどは、「生前のイエズスには関心がない」という意昧のことをハッキリと述べている。
「私はあなたがたの間で、イエズス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」
(新約聖書・コリントの信徒への手紙・第2章2節)とも。
(続く)