国家(公)と個のバランス | 鬼頭 尚士のブログ

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これまで薄々感じていたことで人の話や書物から確信を得たことがある。それは国家という価値観の変化についてである。受け売りではあるが自分の言葉で記してみる。

最近、鹿児島知覧の特攻平和会館を訪れ南洋で散った若者の遺書を見て涙した。それは純粋に身近な人への深い愛という現代の私たちと同じ思いを感じるからだ。一方で当時の価値観として国家というものが強くあったことにも気付かされる。彼らは大事な人を守るために国に命を捧げたのだ。

戦後日本人は焼け野原から立ち上がり、やがて高度成長時代がやってくる。それを牽引したのは戦前生まれの方々だ。国という価値観を植えつけられた世代である。日本を何とか復活させたいという強い国家意識がなければ高度成長はなし得なかったのではないか。

戦後生まれが大半になるころから国家という価値観が薄れ個が強くなったのは必然である。なぜなら戦後教育は国家よりも個に重きを置いたからである。核家族化はその象徴と言える。

このことがよくないのではなく、戦争を挟んで国家(公)と個のバランスが振り子のようにあまりに大きく振れたということなのである。バブルはこの個の行き過ぎが大きく影響したという人もいる。

平成に入り携帯電話が出てきた頃から、簡単にネット上で人がつながることができるようになる。そのことが個の行き過ぎに結果的に歯止めがかかることになる。

そして阪神淡路、東日本の震災を経て人のつながりが叫ばれるようになる。ようやく国家(公)と個のバランスがとれてきたと信じたい。知覧から出撃した方々は実はこのバランスを望んでいたのではないか。

ただ、国家という表現自体が戦争を連想させるという風潮は今でもあるように思う。近隣国家への遠慮という政治的側面もあろうが国家のためとは世のため人のためと心得てもっと言葉に出しても良いように思う。

オリンピックやワールドカップのときに日本を応援するだけに留まらずに、である。人間、どこの国であろうと国に属している限り国家に愛着を感じるのは当然のことだ。そのことが個の充実にもつながるのである。