こうやってこのブログを、長〜い長〜いブランクの後に再開し、
先生の後を継ごうとカッコをつけて(?)書き進めてきましたが、
私は結局何を見ようとしていて、何をしたいのでしょうか。
あらゆるエゴを引き受けると大言壮語し、
私は、神であると共に悪魔である、と表明し、
自分に見えたエゴは、全部自分のエゴである、と感じ取り、このことをずっと映し続け、
そこに責任を負い続ける、そう宣言しました。
それは決して間違っておらず、私にとっては一番大事なことだと思っています。
なぜなら私は、自分がずっとエゴの思考と行動でここまで来て、
(今月、東京に行ってもそれを思い出した)
そこにどっぷり浸かって来た人間であると、知っているからです。
先生の教えに従って、
いまやっとそのエゴから抜け出そうとしている今(出たとはいいません)、
エゴというものが、自他の至るところで、ボコボコボコボコと湧いていることが、
見えてきてしまうのです。
私にはエゴの底というものが見えてしまうのですが、
人がどんなに自分が正しいといい、正当性を主張し、
自分は悪くないといったり、はたまた自分を取り繕ったり、
他人を攻撃したり、陰でこそっと何かをしたり、
みんなでやればいい、あいつもやっているからいい、
と自分の人の周りを見回したりしたとき、
その底にエゴがあります。
それだけでなく、人が何かをして「苦しい」と感じるとき、
ここにもエゴがあったのですね。
「苦しい」というのは、自分がよりよく存在したいと思って、
それができないとき出てくる感情ですが、
自分が生き延びたい、何とかうまくやりたいという、
自己中心のエゴから出てくる感情なのですね。
まさか「苦しい」と感じることまで、エゴから来ると断罪するのか!
そんなの生きていて当然ある感情で、
そこにまで目を光らせていなきゃいけない、なんて、
ちょっとやってられない。
私も始めはそう思いました。
でも、全てを受け入れていて、苦しくない時は、必ずあるのです。
苦しいという囚われから、解放されている平和なときが、あるのです。
ここから見れば、苦しいというのが、自分に囚われて、執着している状態だと、理解できます。
人は四苦八苦する必要はなかったのですが、誰もが四苦八苦します。
四苦八苦しなくとも、ときは流れる。
だったら苦しむのをやめ、そのままにしよう。
そのために私は自らをかけたい、と思うようにはなったのです。
(これも執着のうちに入るのでしょうか?
執着と思うなら、それも止めればいいのですけど)
でも私はもう、四苦八苦のエゴにはいたくないので、これは手放し、
仏陀も教えてくれたように、
苦(エゴ)から抜ける道を行くのみです。
この道を進めていけることが、宇宙の自動の法則ではないかと思います(!)。
私が周りを見て、自分に映してしまうエゴを、もっと見て行きたいと思います。
私が、もっとも気になっているのは、
やはり、闇側と、宇宙の目覚めの対立のテーマでしょう。
人間は闇に沈むか、目を覚ますか。
いま、これがまさにタイムリーなテーマです。
先生が、地球がいま、5次元上昇のタイミングであると仰ったように。
たとえば、日本で、世界で、利権と目覚めの争い、これが今、沸騰していますよね。
USAIDとDOGE、相次ぐ増税と財務省解体デモ、グローバリズムと反グローバリズム、
海外支援のばらまき、外国人優遇、○○庁、××庁の中抜き、外部委託、還流。それに対する国民の怒りの爆発・・・。
エゴが築き上げた支配の体系、これを続けたい動きと、これを打ち壊そうという動きが、相争っています。
双方が拮抗し、問題がより明確になっていますよね。
ゲームの駒であることに気がついた人々が、ノーを突きつけています。
これが目覚めでしたね。
そして目覚めとは、自分のエゴの毒出しをしないと、そこに至らないのでしたよね。
私は対立の底にあるエゴを背負うつもりです。
だから文句はいわないのでしたよね。
激しく強くノー、とは言わないのでしたよね。
激高したイエスのように、神殿で商っている両替商の台をひっくり返したりもしないのですよね。
でも、全部引き受けて背負って、どうするのですか???
ノーなのではないのですか? エゴにはノーなのではないのですか?
で、私はそもそもエゴでした。
そして今、自分はエゴではあるけれども、
目覚めの一点とは、すべてを貫いて真実で、噓偽りがないものだと、
はっきりと受け止めていると思います。
エゴである限りにおいて、同じエゴにいる人たちを批判し、弾劾し、誹謗することはできません。
ですがその上で、
「自分さえ良ければいい」に生きていることが、いかに間違っているかを、
はっきりと示すことができる、と確信します。
このエゴに直面して、いま世界的規模で、目覚めた人たちが活動し始めていることを、
確かに感じています。
エゴの人が、自分はエゴをやっていると気がついてやっていても、
気がつかないで、あるいは気がつかない振りをしてやっていたとしても、
その根っこが私自身のエゴと同じものだとわかってしまった上で、
このエゴが今、通らない時、絶たれる時、覆る時であることを、強く実感しています。
あいつが悪い、とは言いません。(私が悪いのですから)
その悪いものがひっくり返る時ですよ。
抵抗していても、否定していても、まったく自由ですが、
自分さえ良ければいい、というのは、もう通りませんよ。
いくらエゴの人が、そして悪魔といわれる存在がこの世に溢れていても。
(いや、ほとんどがそうなのです。
だって人生とは、仏陀が言った通り、生、老、病、死と苦そのものであって、
その苦とは、エゴから来ていて、つまり人生はエゴだらけで、
そのエゴを乗り超えた人、義人はいない、悟りのある人はいない(パウロ)のですから)
でももう、自分さえ良ければいいで、生きて行ける時ではなくなっている、のですよ。
二項図式で分かりやすく見る事はできます。
前に書いたこともありましたが、
グローバリズムと反グローパリズム、
共和党と民主党。
野党の質疑と与党の答弁
支配と隷従(盲従)
西側のNATO拡大とロシアの反攻
親の支配と子の自立
先生と生徒、上司と部下
搾取と迫害
自由と弾圧
権力と反権力
オールドメディアとニューメディア
偉そうな人々と、異議を唱える人々
松葉とワクチン(!!!)
・ ・・・・・・
二項対立の根っこには分かつエゴがあって、
結局、究極、どちらがいい、ということではなくなってしまいます。
エゴの根っこを忘れずして、かつ、そのエゴを愛で抱き取るほかはない、と思います。
(先生ご自身は、松葉もワクチンも、毒出しだと仰っていました)
目覚めの時が来たのに、世の中全部エゴだらけで、
戦争や、争いや、いじめや、略奪や、虐殺や、搾取や、支配・・・・・を繰り返し生んでいます。
この社会から、いったいどこへ行くのか?
もうそこには、生きていけない。
生きていけないことがわかってしまったのにです。
それでもなお、そこでもがき、蠢(うごめ)き、しがみつき、したりするのですか?
それでもまだ、お互いに、苦を刻んでいきたいのですか?
苦は、もう終わりだったのですね。
苦か、悟りか、
エゴか、愛か、
悪魔か、神か、
その答えは出ているのではないでしょうか?
愛の道 エゴ重ね来し 我とても 答えに気づき 歩むべし 喜び(ジョイ)の核(心) そこに光れば
愛うごき エゴの底意を つかみ取る 奥意も知らぬ 深きはたらき 我も行くらん
(愛犬との散歩道です)
