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自動ということを、日々感じて、
自覚して自動で生きようと、日々思いを新たにしていくと、
自分のエゴというものを、全く根っこから絶つ
という感覚が、欠かすことのできないものであると、
日々ますますはっきりと、強く感じてきます。
このエゴに気がつかないで、自分に甘く、
このエゴを飼いならしていたり、
ラクしたいとか、手を抜きたいとか、
自分はダメなんだ、できないんだと
自分で自分を否定していたりとか、
そういうところからは、もう身を翻し、手を切って、
もうそんなときではないんだという自覚をもっていよう、
という思いを強く抱きます。
なぜならエゴって愛から遠く、
自分に甘いことを放置して、
自分に都合のいいところにとどまって平気で、
生活にけじめというものがない状態だからです。
エゴは実は何も成し遂げる事ができない、
エゴでいるとは、微温的で、
惰性のまま時を過ごしてしまい、
気を散らし、時間をつぶして平気な状態でいる、
ということです。
つまりエゴでいるって、気づきのないところにとどまって、
何も感じない状態なんです。
エゴというものに気がついた今、これを手放して、
ここから常に身を躱して、自由になって、
のほほんと生きることにノーを言って、
エゴでない人生を全うしたい、と思います。
自分の人生を愛し、そして人のことを思って大切にし、
常に愛に導かれた日々を送りたいという気持ちを、
いまは強く抱くのみです。
それは「自動」に導かれた、生活のリニューアルだし、
自分の生の次元、ステージが
新しく変容していくことであると、感じます。
今、私は、エゴを野方図に温存させる心の仕組み、
これとは別世界に生きよう、という気持ちになっています。
「自動」で、人々の心根に愛の光を到達させる。
そこにいたいと思います。
エゴをやめていないと、この感覚は湧かないです。
エゴに気がつき、ここから離れ、
常にエゴを絶つことを自覚し、
澱みのない「自動」でいたい、そう思います。
私が自動の「精錬」ということを思うようになったのは、
エゴを手放していく、その気づきと共に、
自動が絶えず新しくなり、磨かれ刷新していく
と感じるからです。
そこでは常に喜びが湧き出ています。
これは生活の刷新であり、愛の発信です。
エゴをやめられないでいたときにも、
エゴからの自由をどれだけ望んでいたことか!
それは実は、誰のもとにもあるのですが。
日々新しいこと、これがカギです。
常にゼロから始めていける。
自分の中になんの前提もないけれども、
やりたいことが湧き出てくる。
これが「自動」です。
それは、日々の様々なことに当てはまってきます。
部屋の掃除、整理、模様替えにも、
寝室の移動、断捨離、空間の創造にも、
新しい料理を作ることにも。
新たな素材が眼につくので、どんどん買ってみて、
取り入れてみます。
たとえば最近私が「道の駅」で買った素材は、
ケール、プチベール、わらび、冬菜、イタリアンパセリ、菜の花、
(毎春、出ていたのに、全然これまで気がつかなかった)
音楽でも、私の嗜好は大変狭いものですが、
俺にはでき〜ん、俺には苦手、で終わらせることは、
自分に制限をかけていて、嫌なので、
いろいろと聴いています。
クラシック(その中にも好き嫌い、得手不得手はありますが)
だけでなく、ジャズ、ポップ、
若い人の曲(まだあまり届いてませんが)などなど、
いままで中途半端のまま過ごしてきたことはたくさんありますが、
中途半端はもうイヤ、おしまいなので、
耳を澄まして、音を聴こうとして、
自分の中のブロックを外していっています。
おかげで無心に音が入ってくるようになりました。
こうやっていって、ふと湧いてくる幸福感ってなんでしょう。
「自動」で行動していると、
自分の心の中になんのへこみも、穴もなく、
ただ心が満たされている思いを抱きます。
何かすべてが満たされていて、心が満足している。
その感覚で、体中が喜んでいる。
そういう思いを抱くんです。
しかもそれはある瞬間にふと訪れてきて、
なんだろうこれは、と思うのです。
そしてこれが、なんの悩みも無い、
することはしている日にやってくるんです。
夕方、犬と散歩しているときなんかに。
やることをやっているときや、その後でしか、
こういう幸福感って来ないのでは、と思います。
何も日々行動しないで、それで満足ということは
あるでしょうか?
わたしにはないように感じます。
楽することに時間を使いたくはないし、
止まってもいたくない。
でもこういうことは、
私が自分のエゴを断ち切ったから、できるようになったこと
ではないかと、深く感じています。
なぜって、そこで愛が心の中から、湧いているからです。
そしてそれが自動で、なのです。
自分自身の我の主張は、何も要らなかったと思います。
人や、あらゆるものとつながっていくこと、
そこにしか、自分の喜びはないと感じるからです。

夕焼けと田植え前の田んぼ、遠方には八ヶ岳 |