自動とは、軽い生き方です。
なぜ自動というのか。
それは私自身の心奥から、すべてのことが湧
でもそれは私心ではなく、いわば、宇宙の理に適った、
感じるからで
我(われ)ならぬ我(われ)の現れきて、
見ずや天地(あめつち)
という賛美歌がありますが、
この「我ならぬ我」
「我ならぬ我」が現れることによって、
天地が、大地と空とが、
一新する。
この、「我ならぬ我」こそが、
宇宙の働きとつながった我であり、
それでは、「我ならぬ我」で初めに出てくる「我」とは、
これこそ、いつも私自身として振る舞っている、そのままの私で、
とても大切なことは、この私とは、
もしくは、この私とは、
そのことをわかることが大切なのです。
これが自分自身のエゴを理解し、
ずっと自分に固執し続け、
自分の存続と発展と、
それは実は、何もないものだった。
これは、自分が信じてきたものが、全くの無だと、
自分が首根っこから、断ち切られたような感覚、
そうやって、その事を感じて、初めて、
エゴとは、間違っていた! 要らないもの、不用なもので、
人を過たせ、
これくらいのことを感じられてこそ、エゴをやめたその先へ、
エゴとは、やってはいけないもの、
エゴはその首根っこから、刎ねられ、絶たれて、
ああ、エゴがなくなったら、本当に道が開ける。
そして、
桎梏が、自分勝手が、なくなった。
それまでは、こんな感覚はわからなかった。
でも、エゴが首から刎ねられて、
すべてを縛っていた、
なんと自由なのだろう。
そういう別世界のような感覚です。
エゴは要らないものだとわかった!
そしてここから、全く自由な、
それが「自動」、自由な自動の働きなのです。
私自身、このエゴにずっと引っかかってきた人生だと思います。
どれだけ、自分さえ良ければいいを当たり前にしてきたか。
それはあまりにも当然の自分の生き方であり、
自分が暗い、
それを実際の所は、
ということになると思います。
思考は、自己中にしか動かず、そこから出ることはなかった。
それがどうして、そうではなくなったか?
その間の経緯については、このブログで昨年、
先生からエゴを超えるお話と、「
でもそれをそのままにはできず、
そこから、実際にエゴを抜けたと実感するまで、
そのあげくに、不意に、エゴから抜けて自分が軽くなっている、
自分がなぜ軽いのか?
それはそういう所にきてしまったからです。
それはどうして自動なのか?
それは自ずからの動きが、道が、立ち現れているからです。
それはどうして、宇宙の自動で、
それは、それ以外、ほかにない道を、
この世界の中で歩んでいる、
そこに桎梏も、よどみも、迷いも、違和感も、存在せず、
私という大海の一滴が、この宇宙という大海の中で、
そして、宇宙を新しくしていくのは、
たった一滴の、
(我ならぬ我なので、
我=私から見れば「他力」の我でしょうが、
自動となって働くのは、我ならぬ我なのですから、
自動、つまり「自力」そのものです。
そして、すっきりつながっている、というこの感覚が大事です。
これによって、毎日、その日の行動が始まり、決まってくる。
それも宇宙とつながっているのです!
そして全くの自由です。
ここを毎日感じ取りながら、
私は何をするかを決め、
そして、自動とは動き、働きですが、
私の自覚によって、
自動とは自覚の度合いによって磨かれる、精錬されるものです。
精錬とは金(きん)を火によって純化していく、
どのような自動を私は生きるのかと、
絶えず打たれ、磨かれ、
そして自動は私ひとりのことでなく、社会、経済、政治、世界、宇宙とつながっているのです・・・
(4月上旬の「関の桜」(白州町)とその3週間後)
(つづく)


