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ワクチンと松の葉 〜自分さえ良ければいいというエゴをどう乗り超えるか?〜

「ワクチン」とは、支配、搾取、詐欺、依存、保身の象徴。
「松の葉」とは、愛、癒し、自由、喜び、信頼、希望の象徴。
今までのエゴ的な価値観を全てひっくり返し、この5次元の地球をいかに生きるかを、今起きていることから考えたい。

 



自動とは、軽い生き方です。

なぜ自動というのか。

 

それは私自身の心奥から、すべてのことが湧いてきて、

 

でもそれは私心ではなく、いわば、宇宙の理に適った、

 

あるいは宇宙の働きと繋がった心の働きであるように、

 

感じるからです。

 

 

我(われ)ならぬ我(われ)の現れきて、

 

見ずや天地(あめつち)ぞあらたまれる

 

 

という賛美歌がありますが、

 

この「我ならぬ我」という存在がカギです。

 

 

「我ならぬ我」が現れることによって、

 

天地が、大地と空とが、世界がまったく新しく見える。

 

一新する。

 

 

この、「我ならぬ我」こそが、

 

宇宙の働きとつながった我であり、自動の働きだと言えます。

 

 

それでは、「我ならぬ我」で初めに出てくる「我」とは、何でしょうか。

 

これこそ、いつも私自身として振る舞っている、そのままの私で、

 

これがエゴの私だということになるのです。

 

 

とても大切なことは、この私とは、何も無いものだったということ、

 

もしくは、この私とは、嘘であり、虚であり、仮のもの、存在しないものだった、ということで、

 

そのことをわかることが大切なのです。

 

これが自分自身のエゴを理解し、そしてそれを乗り超えることになるのです。

 

ずっと自分に固執し続け、

 

自分の存続と発展と、人からの吸い取りと、得すること、損しないこと、人に勝つことを願ってきた私、

 

それは実は、何もないものだった。

 

これは、自分が信じてきたものが、全くの無だと、断ち切られているということで、

 

自分が首根っこから、断ち切られたような感覚、

 

自分がしてきたことは、そもそもが間違っていたと全否定される程の強い感覚で、

 

受け止められるようなものだと思います。

 

 

そうやって、その事を感じて、初めて、このエゴの先へ行けるものだと思います。

 

 

エゴとは、間違っていた! 要らないもの、不用なもので、

 

人を過たせ、迷いのうちに常に落としていたものでした・・・。

 

 

これくらいのことを感じられてこそ、エゴをやめたその先へ、行けるのです。

 

エゴとは、やってはいけないもの、

 

自分さえ良ければいいと言って、人に悪業を働いてしまってはいけないものです。

 

エゴはその首根っこから、刎ねられ、絶たれて、

 

エゴというものを、そこまで徹底して感じ取ることができた時に、

 

初めて、その先が開けてきます。

 

 

ああ、エゴがなくなったら、本当に道が開ける。

 

そして、自由になる。軽くなる。喜びになる。

 

桎梏が、自分勝手が、なくなった。

 

それまでは、こんな感覚はわからなかった。

 

 

でも、エゴが首から刎ねられて、

 

すべてを縛っていた、重いものが取れてしまうとは、

 

なんと自由なのだろう。

 

 

そういう別世界のような感覚です。

 

 

エゴは要らないものだとわかった!

 

 

そしてここから、全く自由な、自ずからの振る舞いが始まっている。

 

それが「自動」、自由な自動の働きなのです。

 

 

 

私自身、このエゴにずっと引っかかってきた人生だと思います。

 

どれだけ、自分さえ良ければいいを当たり前にしてきたか。

 

それはあまりにも当然の自分の生き方であり、

 

自分が暗い、後ろめたい人間だとはわかっていたけれども、

 

それを実際の所は、何とも思っていなかった、

 

ということになると思います。

 

 

思考は、自己中にしか動かず、そこから出ることはなかった。

 

 

それがどうして、そうではなくなったか?

 

その間の経緯については、このブログで昨年、

 

ずっと書いてきました。

 

 

先生からエゴを超えるお話と、「宇宙の自動の法則」の話を聞いていながら、

 

それを自分のこととしてはとらえられず、

 

ずっと遠くの、夢のような話だと思っていたこと。

 

 

でもそれをそのままにはできず、

 

やはりエゴに向き合おうと思って・・・、

 

そこから、実際にエゴを抜けたと実感するまで、

 

ずいぶんと時間がかかり、行ったり来たりしました。

 

 

 

そのあげくに、不意に、エゴから抜けて自分が軽くなっている、と気がついたのです。

 

 

 

 

 

 

 

自分がなぜ軽いのか? 

 

それはそういう所にきてしまったからです。

 

 

それはどうして自動なのか?

 

それは自ずからの動きが、道が、立ち現れているからです。

 

 

それはどうして、宇宙の自動で、

 

宇宙とつながっていると感じられるのか? 

 

 

それは、それ以外、ほかにない道を、

 

この世界の中で歩んでいる、と感じるからです。

 

 

そこに桎梏も、よどみも、迷いも、違和感も、存在せず、

 

私という大海の一滴が、この宇宙という大海の中で、

 

それ以外ない道を歩んで、私の自動は、

 

ぴたり宇宙とつながっていると感じます。

 

 

そして、宇宙を新しくしていくのは、

 

たった一滴の、惑いもない私だからです。

 

 

 

(我ならぬ我なので、

 

我=私から見れば「他力」の我でしょうが、

 

自動となって働くのは、我ならぬ我なのですから、

 

自動、つまり「自力」そのものです。

 

 

宇宙=私の自力といっていいでしょう)

 

 

 

そして、すっきりつながっている、というこの感覚が大事です。

 

 

これによって、毎日、その日の行動が始まり、決まってくる。

 

 

それも宇宙とつながっているのです! 

 

そして全くの自由です。

 

 

ここを毎日感じ取りながら、

 

私は何をするかを決め、活動していきます。

 

 

 

そして、自動とは動き、働きですが、

 

私の自覚によって、進化していきます。

 

 

自動とは自覚の度合いによって磨かれる、精錬されるものです。

 

 

精錬とは金(きん)を火によって純化していく、という意味のことばですが、

 

どのような自動を私は生きるのかと、

 

絶えず打たれ、磨かれ、精錬されていくものだと思います。

 

 

 

そして自動は私ひとりのことでなく、社会、経済、政治、世界、宇宙とつながっているのです・・・

 

 

 

 

(4月上旬の「関の桜」(白州町)とその3週間後)

 

 

 

 

(つづく)