ワクチンと松の葉 〜自分さえ良ければいいというエゴをどう乗り超えるか?〜 -24ページ目

ワクチンと松の葉 〜自分さえ良ければいいというエゴをどう乗り超えるか?〜

「ワクチン」とは、支配、搾取、詐欺、依存、保身の象徴。
「松の葉」とは、愛、癒し、自由、喜び、信頼、希望の象徴。
今までのエゴ的な価値観を全てひっくり返し、この5次元の地球をいかに生きるかを、今起きていることから考えたい。

 

 

なんか同じ所をぐるぐる回っている気がして、少しも前に進まない気がして、心苦しく感じますが、

 

(心苦しいのも、つまずいてばかりの、エゴのなせる技でしたね。

 

エゴから抜け出すだけのために、いま、進めていることですから、

 

捲まず撓まず、手探りで一歩一歩続けていくだけです。

 

 

で、劣悪な次元を目の前にして、これを乗り超えることが、私がいま辿り着いている現実なのでしたが、

 

だったらまず、この劣悪さと同化していく以外、なす術というものは、見出せないのかな、と感じます。

 

劣悪さの底と同化したら、それを十分理解して、消化して、昇華?していけるのでしょうか?(しょうかぁ?)

 

見ない振りをしない、知らんぷりをしない。底の底まで理解して、踏み抜く(!)

 

でしたよね。

 

 

なので、醜いところに、私は入っていこうと思います。

 

 

愛による支えは、すでに私の中に確かにあるのですし。

 

 

そうするとここで、見えてきたエゴに、ひとつひとつまた、向き合っていったらいいのでしょうか・・・?

 

 

たとえば、(いきなりですが)、

 

トランプの関税には、どういうアメリカファーストという自分さえ良ければいいが、潜んでいたか、とか。

 

 

(ディールといいますが、相手のこと考えている姿勢ではないですね)

 

 

私たちが利用するいろいろなサイトには、なぜ「本人確認」や、「通報」が必ず入っているのでしょうか? 

 

そうやって、陰で、支配をもくろんでいるのか、とか。

 

(通報って、私には目の前の人を売れ、というように聞こえます。

 

そこには信頼で醸成される人間関係はないのですね)

 

 

税収が予想以上にあっても、人様の大切なお金を取り過ぎて大変だろうから、お返ししようという愛はなぜ、働かないのか、とか。

 

(国民のことを人様といたわる思いがあるのでしょうか? 

 

それとも、自らは上(様)に仕える僕(しもべ)で、国民はその下の下僕だから、

 

ごく当然に、従え、というのでしょうか?)

 

(官僚の方々は、なぜ偉そうでも、許されるのでしょうか?)

 

 

人々を監視する「監督官庁」や、警察の裏をかくように、詐欺、騙し、犯罪が成立するのはなぜ? 

 

これって波動的に、ネガティブ波動が共鳴し合っているのではないでしょうか?

 

 

自国は平和でも、人の国には、謀略をしかけ、核兵器を打ち込むこともやむをえないと思っているのか? 

 

自衛のためだから、仕方がないんだ、なのか。

 

当たり前に「核武装」が議論されています。

 

(今の人類の最大のテーマですね)

 

 

・・・・・・

 

 

などなど、至る所に見えてくるエゴには、切りがありませんでした。

 

 

劣化した、劣悪な世界とは、このことか・・・

 

 

それで、そのひとつひとつに向き合い、同化して、剥いでいくのか?

 

これは、際限なく続く、終わりのない作業ですね。

 

 

これを乗り超えるために、これと出会っているのか?

 

 

前回そう言いました。

 

 

 

それをやるしかないのか・・・(トホホ、なのか?)

 

 

 

 

ここでまた私は、いきなり、結論に、行ってしまいましょう。

 

(またいきなりですか?)

 

 

これらのすべては、幻想でした!

 

愛から見れば、幻想、幻影の世界だったのです!

 

だから、すべてこれらのことは、

 

吹けば飛び去る、虚空に消える、愛の陰の世界でしかなかった、

 

というわけです。

 

エゴの無限の魑魅魍魎とは、愛の光の中から見れば、マーヤー、存在しえないものだったわけです。

 

私のエゴはこれらの魑魅魍魎と同化しても、

 

それらはそれごと、愛のまなざしのなかで、

 

根っこのない幻影、陰、存在の映しでしかなかった

 

というわけでした。

 

 

私はずっと、エゴを映すということを言ってきました。

 

人の行動は全部エゴで見えてくる。エゴが映し出されてくる、と。

 

このエゴが映るってなんでしょうか?

 

 

これこそ、根っこのない、自分さえ良ければいいという独りよがりが映った、ということです。

 

映っているものは、根拠のない浮き草だったのです。

 

つまり、エゴの者は、浮き草を演じているにほかならないのです。

 

たとえ世にそれが憚っているとしても、いかにグチャグチャの魑魅魍魎だったとしても。

 

 

それは、愛のまなざしによって映し出されてしまう、まぼろし、幻影でしかなかった、ということなのでした。

 

(そうは見えてこないでしょうか?)

 

 

私は自分で映し出した幻を相手にしている、ということでした。

 

幻想との格闘でしたね。

 

 

それは重いことだったのか。それとも、とても軽く、あるいは何もないものだったのか???

 

 

一体どちらでしょう?

 

 

 

 

(鳳凰が羽ばたくという鳳凰三山を眺めていたら、太く消えない飛行機雲が空をつんざき、その後、涙と鼻水が止まらなくなりました。魑魅魍魎の幻の世界)